*
明人がアクセルを踏み込むと、海へ抜ける風になる。ペーパードライバーのため、前にハンドルを握ったのがいつか思い出せない。ふと頭を掠める。このままスピンしても、警察は事故死と片付けるだろう。いっそ死んでしまったほうが楽ではないか。美砂にこれ以上の迷惑をかけたくない。保険にも入っているし、こんな父親がいては光の将来のためにもならない。しかし明人はそれができない自分を知っていた。
江の島に着いた。この日もシーキャンドルが見える。江ノ電の緑が目に眩い。海岸に人はまばらで、バーベキューの匂いもない。それはそうだろう。十月なのだ。秋を終えて、冬が近づいていると明人は思う。
互いの家族と来てから、豪とふたりだけで何度訪れただろう。すっかりここの風に素肌が馴染んだような気になっているが、ひとつの季節しか知らないのだ。人間でいったら、ある一面しか見ていなかったことになる。
彼岸前の風が爽やかだった頃、光を先に寝かせて、星空の屋根を眺めた。
その手を握りながら、ここには俺以外と来るなよと、おとなげないことを言った。豪はふふんと笑っていた。
渚に近い街頭のスタンドが錆びている。駆け足で蹴った波打ち際と吐息。しかしそれも朧気だ。どうせばれてしまうなら、LINEのやり取りを保存しておけばよかった。ふたりで写メを撮ればよかったと思う。何もかもが遠くに過ぎ去っていく。
寄せては返すのは波だけではない。後悔の念がこころに押し寄せる。
腕ずくで奪えなかったものか。踏み止まらせたものは何か。家庭か、世間の目か、小心か。その全部か。
誰かのせいにしたかったが、自分の顔しか思い浮かばなかった。
目に滲むものがある。だから最初のうちは幻だと思った。そのうち影がはっきりと形を取って、明人のほうに近づいてきた。サングラスをかけていたが、見間違えようがなかった。
豪が明人の前に立つ。少し照れ臭そうに笑った。明人はその厚い胸板に飛び込む。こころから声が出ていた。
「必ずここでまた会えるって信じてた……!」
ふたりは、過去最高に、互いに壊れそうなほどきつく抱きしめ合った。
突然の夕立がふたりを急き立てる。
豪は終わったはずの夏がまた始まったのだと思った。
11
最後の「こと」を終えた後、ふたりは安モーテルを出ると、割れた歩道を抜けて、海岸にたどり着いた。雨はやんだ。低い空に黄金色の雲が海すれすれに垂れ込めている。肩が乾いたシャツで、一緒に座り、海を眺めた。手を繫ぐ。人の目は気にならなかった。互いに同じことを考えているだろうと明人と豪は考えていた。
饒舌な波がふたりの代わりに会話をしているように見えた。沈黙をつらく感じたわけではなかったが、豪のほうから先に切り出した。
「僕は、明人がいれば、他に何もいらないよ」
明人は黙っていた。曇った横顔に向けて、豪は続けた。
「ふたりで、どこかに逃げよう」
明人の表情は変わらない。ひざを泳ぐ虫を払おうともしない。ほどなくして抑揚のない声でつぶやいた。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。