*
豪はその日も誰も待つ者がいない家に帰った。帰る必要などなかったが、社員に定時退社を厳命しているため、率先して社をあとにした。シャツの皺や髭の剃り残しには敏感になった。妻が出て行って帰ってこないことを社員に知られたくなかった。これ以上醜態を晒すのは御免だという思いからだった。
豪が強くそう思ったのは、事件が明るみになってから数日後、片腕として育ててきた瀬島が突然辞めたことが大きかった。辞表には「一身上の都合により」と書いてあった。送別会も拒否された。瀬島は荷物を片付けた後、豪にこれまで世話になった礼を述べ、こう訊ねた。
「僕のことは、どうでもよかったのですか?」
その目はしんと冷えていた。
まなみが山王バースセンターで亜梨を虐待している現場を押さえられ、警察から事情聴取されて一ヵ月になる。鎮静剤を注射され、個室で少しの時間眠りについた。
葉山に住むまなみの両親は血相を変えて赤坂警察署に駆けつけた。豪はその日仕事で東京を離れていた。旧知の在尼(インドネシア)アメリカ人投資家が来日したため、食事を兼ねての意見交換に専心するあまり、スマホをチェックする暇もなかった。病院側はまなみの両親を知っていたため、彼らに連絡を取った。
まなみの両親は面会室で狂犬のような目をした娘に動揺した。
警察はどうして四日も家に帰らず亜梨とホテル暮らしをしていたのか、幼い娘をホテルに置き去りにしていたのか、夫が病院に来ないことを訊ねたが、まなみは頑なに口を割ろうとしなかった。ようやく口を開けたと思えば、「自分は悪くない」の一点張りだった。
妊娠を考慮し、警察は処分保留として、その日のうちにまなみを釈放した。児童相談所の職員が同席して、まなみと両親に今後のことを話し合いましょうと伝えた。ふたりだけで行動させないようにと勧告されたため、まなみの両親が葉山の家に亜梨を引き取ることにした。
「おまえはどうするんだ」
むくれ顔のまなみは答えない。彼女のスマホが鳴ったが、画面に表示された名前を見て、即座に切った。両親は相手が誰なのか、瞬時に悟った。
しばらくまなみと亜梨は葉山で過ごした。まなみの険は取れていったが、両親には忸怩たるものがあった。ずいぶんと甘やかして育ててきた。幼稚園から私立に入れて、自分たちが欲しくても手に入らなかったものを幼いうちから与えてきた。育て方を間違ったのかと、途方に暮れそうなこころを隠した。
しかしそれから数日して、まなみの両親は、心配を装った近所の住民から教えられた。
「災難でしたな。御主人を許してやらんこともないと思うが」
そこで両親は、すべての経緯を知った。
義父母の𠮟責は日頃感情を抑えることに長けた豪にも堪えた。当分の間、葉山でまなみと亜梨を預かるという。豪は「申し訳ありません」と口にしつつ、胸を撫で下ろした。
豪は仕事に没頭することで、日々のプレッシャーや引き裂かれてしまった男のことを考えないようにした。
しかしさらに豪に追い打ちをかけるようなことが起こった。画家の友人が急逝した。
高校生だった頃、同じ絵画教室に通っていた。同い年で、見た目はどこにでもいそうな男だったが、自分と比較にならないほど才能があった。
寝食を忘れて、という言葉はその男のためにあった。前夜、教室で別れを告げて、次の日、同じ時間に教室に行く。友人は、昨日と同じ服のまま、コップに入った水を描くため、ひたすらキャンバスに向かっていた。豪が驚いて声をかけると、「あれ、一日経ったのか」と、充血した目を向けた。まるで生きた獣と対峙する男の顔つきで、精悍そのものだった。
才能に奉仕されることを宿命とする選ばれた者なのだと豪は思った。とてもではないが彼の前では、「僕の名前はゴーギャンから取られた」などとは言えなかった。
友人は最難関とされる美大に現役で合格した。卒業制作の絵は、学校が買い上げた。彼の将来は順風満帆に見えた。しかし、茨の道はそれからだった。絵の勉強のためフランスに留学したが連絡が途絶えた。あとで人づてに聞いた話では、パリに着いた当日、寄宿舎に向かう道で風景画を描いていた中年のキャンバスが目に入った。素人のレベルを凌駕していた。それどころか、美大に在学中に見た誰よりも卓越していた。しばらく、撃ち抜かれたように立ち尽くしてから震える声で話しかけた。
ボンジュールと言ったつもりが通じなかった。身振り手振りと拙い英語でわかったが、男はやはり絵画の学校に通っていたものの、絵だけでは食っていけず、仕事が休みの日に、趣味で描いているという。とんでもないところに来てしまったと彼は思った。プロ野球選手を目指す男が、アメリカに来てみたら、草野球のレベルの高さに声を失くしてしまったようなものだ。
パリで自信を喪失し、苦難の日々が続いた。彼を苛んだのは自身の才能の限界だけではなかった。年が近い日本人新進画家の作品が、どう見てもアマチュアに毛が生えた程度なのに、欧米で評価されていたことだった。ポップだが、思わせぶりなだけで、子どもでも描けそうな絵に、法外な値段が付いていた。大袈裟な修飾語で飾られた評論に目を通しながら、目が回りそうだった。自分の理解の範疇を超えていた。
数年後、挫折を抱えたまま帰国した後も、絵描きとしての注文はなかった。昼は看板描きに精を出し、夜は美大志望の子たちに絵を教えた。身をもって教示したことは、「美大を出たところで美術教師にしかなれない」という厳然たる事実だった。
たまに個展を開いた。どこで開くかが、ときにその作品より重要になる。銀座か渋谷か、画家のキャラクター込みで売り出したい場合は、中央線系や下町で開くのも有効だ。友人はいつも駅から遠いガレージで催した。当然それを注意する人はいたが、彼はいつも「本当に見たい人にだけ見てほしい」と返した。
この十年間で二回ほど顔を合わせたことがある。周りから色々と聞かされていたが、実際に会うと、矜持だけは失うまいとする佇まいに安堵した。しかし、肝心の作品は試行錯誤の真っ只中という印象を受けた。それでも学生のときにはなかった髭に手をやりながら、「もっと上手く描けると思うんだ」と語った。豪はかつてほのかな思いを持った相手の報われない姿につらくなって、それからはメールがあっても返信をしなかった。
個展のDMには決まってひとこと、久し振りに会えるのを楽しみにしているとあった。
どうして顔を出してあげなかったのだろう。挫折した彼の数少ない晴れ舞台を祝ってあげなかったのか。かつて栄光が約束された友の落ちぶれた姿を見たくなかったのか。こころにこれまで感じたことがないほどの大きな穴を感じた。
葬儀の祭壇には絵が飾られていた。花瓶に萎れた花が生けられた構図だった。これが遺作らしい。遺影は顔写真ではなく作品というところから、遺族が彼をよく理解していたことがわかった。
ひとり息子に先立たれた母親は気丈に見えた。
「あの子に𠮟られるでしょうね。未発表の作品を引っ張り出してくるなって」
葬儀で懐かしい顔に会った。誰もが平等に歳を取っていた。生まれてからずっと不景気が常態化された世代。高学歴プアーやアンダークラスもめずらしくない。上からはいつも「ゆとり」と蔑まれてきた。名前は忘れてしまった誰かが言った。
「あいつの口癖だったよな。〝ゴッホもモディリアーニもゴーギャンも、生きているうちに正当な評価を受けていない。彼らの絶望に比べたら、俺の嘆きなんて蟻の鳴き声にも満たない〟」
友は死ぬことによって未来に希望を託したのだろうか。
帰り道、足を引き摺るような思いで暗い家に帰った。テーブルにビールの空き缶を並べながら考える。
──あいつは、やりたいことをすべてやり切れた一生だっただろうか。
こころに影が差し込む。何を評価したつもりになっている。自分はどうなんだ。描きかけどころか絵筆さえ握っていない。人生というキャンバスは白地のままじゃないか。
豪はベランダに出て、朝が来るまでひとつのことを考え続けた。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。