母親の圏外から逃れようとした私の半生だった。

【第18回】
家庭を持つ男どうしの不倫がマスコミに暴露され、人生最悪の日々。
明人は鍵を置いて家を出て行った。
残された美砂と光のもとに、母の聡子がやってきた。
ほぼ主夫作家・樋口毅宏が本音全開で描く、『東京パパ友ラブストーリー』好評公開中!

 美砂が目を覚ますと、白い天井が見えた。傍らには明人がいた。

「美砂、美砂っ」

 泣きながら何度も自分の名を呼ぶ。看護師が来て、明人を制する。

「気がつかれましたか。過呼吸でこちらまで運ばれたんですよ」

 ぼんやりした頭でそれを理解しようとする。あとで聞いた話では、第一発見者は明人だったという。虫の知らせがあったらしい。美砂の携帯電話にかけても電源は切られている。走って家に戻り、玄関を叩いても反応はない。明人は鍵の緊急サービスに電話をかけた。テーブルの近くで横たわる妻を見た瞬間、心臓が止まりそうになった。それでも手首に傷がなく、ガスも漏れておらず、胸に心音があるのを確認すると、美砂を背負って、病院までのタクシーを捕まえたそうだ。運良く、外で張っていた記者たちはいなかった。

「点滴が済んだら帰れますからね。旦那さん、良かったですね」

 ちょっと大袈裟だと思うけどと、小声で言い残して看護師が去る。明人は変わらず美砂のベッドの端に顔を押し付けながら泣いていた。

 美砂は白い天井を眺めながら、そういえばこの人は出会った頃から泣き虫だったと、揺蕩う意識のなかで思った。

 まなみが自分でもいちばん驚いたのは、豪がふた回り近く上の男と不倫を重ねていたことではなく、愛娘の亜梨が憎らしく感じてしまうことだった。あの男の血を引いた子かと思うと、血が沸騰する思いに駆られた。この手で怒りを摑めそうな気がした。

 カードを使い、ホテルに連日泊まった。亜梨も一緒だった。保育園に連れて行って、保育士や他の保護者たちから意味ありげな目で見られたくなかった。以前は連れて歩くのが自慢の可愛さだったのに、いまは見ているだけでむかっ腹が立ってくる。どうして連れてきてしまったのだろう。子育ての苦労をあいつに味わわせる、いい機会ではなかったか。亜梨も母親からどう見られているのかわかっているようで、一切のわがままは鳴りを潜めていた。レストランに自分だけ行って、ホテルの部屋に一日閉じ込めておいた亜梨にコンビニのパンを与えた。自分は腹癒せに服を新調したが、亜梨には同じ服を連日着せた。風呂にも入れず、下着も同じものを穿かせた。

 もし「子どもに罪はない」などと綺麗ごとをほざく輩がいたら撲殺しかねなかった。

 顔を汚したまま、束の間の眠りにつく亜梨を尻目に、まなみは同じことを考える。

 前回の浮気は本妻の矜持で凌いだ。しかし今回は違う。

 相手が男なのだ。複雑なじゃんけんに頭が割れそうになる。

 豪と初めて会ったとき、この男なら大丈夫そうだと感じた。この男なら、すべて掌に乗せて転がせると。

 まなみが豪の前に付き合っていた男は妻子持ちだった。黒歴史のトップ事項。魔が差したとしか言いようがない。若い男にはない優しさを持ち合わせていた。会えばいつもとびきりに優しかった。しかし同年代が次々と適当な男を捕まえてウエディングベルを鳴らすのを見送るうち、自分の若さが搾取されていることにようやく気付いた。いつ奥さんと別れるのと問い質すと、男は露骨に嫌そうな顔をした。ベッドと同じ人物とは思えなかった。別れを切り出したのはまなみのほうからだった。男の会社に中傷ビラを配る復讐でほんの少し気が済んだ。

 まなみは失われた時間を取り戻そうと躍起になった。今ならまだ間に合う。高学歴はもちろん、高収入で、社会的にも高い位置にいる男を捕まえられる。そして二歳年下の豪と出会い、その願望は叶えられた。

 亜梨を産んだとき、これで「契約」はより強固なものになったと思った。豪の家の人間は代々優秀だ。ルックスは自分に、勉強ができるところは豪に似てほしい。万が一離婚するときが来ようと、愛は消えてもスペックは残る。あとは悠々自適な慰謝料と生活費で過ごす。

 同じ頃、かつて付き合った妻子持ちの男は倒れて寝たきりになったと風の噂で聞いた。

 ──よかった。そんな人と結婚しないで、と思った。

 私に歯向かった者は必ず罰が下る。そう考えると無上の悦びを感じた。

 豪といて幸せだった。保障された生活があった。このままずっと幸福でいられると思っていた。なのに。なのに。

 いつからふたりの関係は始まっていたのか。いずれにせよ、病院に行かなくてはいけない。その至れり尽くせりぶりにすべての妊婦の垂涎の的となっている山王バースセンターに足を運んだ。採血して、HIVはもちろん、あらゆる性病をチェックしてもらった。検診の結果、軽い梅毒と診断された。「赤ちゃんには影響はないと思います」と医師は話した。「影響はないと思います」? それはどの程度の確証を持って言えるのか。何度も医師に詰め寄った。

 半ば放心状態で待合室の長椅子に尻をつく。亜梨は母親の顔を盗み見て、少し距離を置いた。小さな頭なりに考えた護身だった。まなみはふらふらと立つ。捨てられると思い、亜梨はあとをつける。トイレに入るなり、まなみは娘の頰を叩いた。感情的な言葉を降らせて、亜梨の顔に雨あられの打擲を振るった。子どもの叫び声がするほうに病院関係者は必死で駆けた。女子トイレの床で、娘の上に跨る毒母を押さえつけた。

10

 うちん時代は家ん中はお父さんがいちばんやけんね。やけん美砂が外で働いて、明人さんが家事や育児ばしとると聞いたときは、時代も変わったなて思うたもんや。

 そうやなあ、美砂は子どもん頃から女ん子らしゅうなかちゅうか、良う言えば活発で、悪う言えば、こうと決めたら、誰が言うても耳ば貸さんていうか。

 お父さんも生きとるうちに何度も零したけんばい。美砂が男やったらなあって。うちもそう思う。

 うちね、ここだけん話、美砂はうちが嫌がることば知って、ちゅうより、嫌がらせんために明人さんと結婚したて思うとるばい。まああん子も、子どもが産みとうて、ばってん年齢的にリミットが近かったけん、いちばん手ごろな相手があん人やったんやなかとねえ。そりゃ家んことも光ちゃんのことも世話してくるるけん、良かったかもしれんばってん、ああなっちゃねえ。こぎゃんこつ言うたら何ばいけんど、うちゃはじめから長続きはせんやろうな思うてた。

 うちは、熊本であん子の弟家族と住んどる。ええ嫁さんと結婚したね、あん子は。三歩下がって男ん人ば立つるところがあいなっせ。いまどき古風言うんと。

 男ん人もね、口では男女平等ば唱えてん、「女性の社会進出、結構や」言うてん、「自分ん地位ば脅かさん程度に」って条件付きばい。

 男はなんやかんや言うても、妻には尽くしてほしかて思うとる。

 共働きばしよる夫婦だって、もし男に稼ぎがあったら、女には家ん中におって、子どもの世話ばしてほしかて思うとるばい。野球選手ば見ても、奥さん、ダンナの世話ば一生懸命しとるやろ。それでよかばい。知恵がある女んほうが不幸やて思うばい。日本では。ほんとはみんなそう思うとるんやなかと。言うたら怒らるるだけで。

 やけんこん国では、女性で出る杭は必ず打たるる。そぎゃんもんばい。

 嵐のような一ヵ月が過ぎていった。

 一時は永遠に続くのではないかと思われた騒動も、未成年アイドルの喫煙写真や、大物スポーツ選手のドラッグ逮捕といった大きなトピックが起きると、世間は美砂のことなど忘れて、すぐまた次の話題に飛びついていった。美砂がツイッターやブログを覗くと、誹謗中傷の書き込みは呆気ないほど途絶えていた。ほっとするとともに、物足りなく感じた。これが炎上商法で注目を浴びようとする人の心情かと、少し理解できた気がした。

 事件後初めて都議会に顔を出すときは足が竦んだ。

「おまえの商品価値は下落した。除名処分されたくなかったら離婚しろ」

 以前から美砂を面白く思わない先輩議員からは痛烈に面罵された。

 一方で美砂の影響力はこれで大きくなったという人もいる。

「悪名は無名に勝る。このスキャンダルでさらにきみは名を上げたと思えばいいんだよ」

 肩に手を置いて慰めてきた。やたらとスキンシップをしてくる老議員だった。

 後援会では多くの人に励まされた。「東雲先生は悪くないよ」と訳ありな視線で頷く者、「元気を出して。しょげてたらあなたらしくないよ」と笑みを見せる者、あるいは何も言わず、同情の視線で握手を求めてくる者など、様々だった。美砂の中で燃え立つものがある。

 都知事から連絡はなかった。切り捨てられたのか。だとしても仕方がない。いまは雌伏のときだ。逆襲の機会まで耐え忍ぶのだと言い聞かせた。

 これまでと同じように、明人と一緒に住むようになった。許す、許さないではない。以前と変わらず、生活を続けた。正しい、正しくないではない。それが生活だと思って。

 光がいるときは緩衝材になってふたりの会話は一応弾むこともある。

 光が寝た後は、火が消えたように無口になって、互いにベッドの端と端で背を向けた。

 夜の営みはない。もともと光を産んだ後、美砂は性欲が甚だ無くなっていた。明人も触ろうとしてこない。「助かった」と思いつつ、これが明人の不貞の原因かとも考える。

 何事もなく生活は続いていったが、それでも以前と変わったことといえば、美砂は明人の後の湯船には浸からなくなった。生理的に受け付けなかった。

 戻ってきてから一度だけ、日付が変わる頃に、「すまなかった」と明人は言った。美砂はどう返していいのかわからず、曖昧な返事で終わった。けれども彼女の中でゆっくりと氷解するものがあった。


 明人は時折考えた。まなみに殴られたあの日、どうして自分は一方的に攻撃を受けたのだろう。

「浮気はやられた方にも罪があるんだ!」

 暴論と知りつつ、どうして言い返さなかったのか。

 夢想すると体が熱くなってくる。でも小心な自分にはできなかった。美砂も歴代彼女も自分のことを「優しい」と言った。違う。弱いだけだ。

 でも知っている。小心だからこそ大胆なことができると。

 明人は毎日光を保育園に送り迎えした。保育士や他の保護者の視線にも慣れた。何もなかったようなふりをして、挨拶を交わした。所詮、世間とはこのようなものだと、彼は悟ったような気になった。

 保育園で豪もまなみも亜梨も見かけることはなかった。どうしたのか。保育士に訊ねることはしなかった。

 その疑問はそれからさらに二週間後、自然と解けた。

 弁護士を通して、まなみから合意書が送られてきた。


 合意書

平成年8月28日

 有馬まゆみ氏(以下「甲」という。)と鐘山明人氏(以下「乙」という。)は、乙が甲の配偶者である有馬豪氏(以下「有馬氏」という。)と平成30年5月頃から同年7月頃まで不貞の関係(以下「本件不貞行為」という。)を持ったことに関して、本日以下の通り合意する。

1 乙は甲に対し、本件不貞行為について、これを認め、真摯に謝罪し、甲はこれを受け入れる。

2 乙は甲に対し、本件不貞行為の解決金として50万円の支払義務のあることを認め、これを平成30年8月8日限り、甲の指定する口座(〇〇銀行 ××支店 普通〇〇〇〇〇〇〇 預り金口弁護士堀健一(アズカリキングチベンゴシホリケンイチ)に振り込み支払うことを約束する。なお、振込手数料は乙の負担とする。

3 乙は甲に対し、本件不貞行為に基づく損害賠償債務について、有馬氏に対して求償しないことを約束する。

4 乙は甲に対し、今後一切、手段の如何を問わず有馬氏と連絡を取ったり面会をしたりしないことを約束する。

5 甲及び乙は、本合意書の成立及びその内容について第三者に口外しないことを相互に約束する。

6 甲と乙は、本合意書に定めるほかは、名義の如何を問わず何らの債権債務がないことを相互に確認する。


 以上の通り合意が成立したので、後日の証とするために本書2通を作成し、甲乙各1通を保有する。


 弁護士が立ち会う中、明人はサインをした。

 美砂には明人が涙を堪えているように見えた。泣きたいのはこっちだと、美砂はしらけた気持ちになった。自分を助けてくれたときには運命を感じたが、こういった些細なことにもこころが行きつ戻りつする。今後もこうしたことがあるのかと思うと、美砂は足元が滑りそうな覚束なさを感じた。

 すっかり秋めいた空の下、明人は自転車に乗り、PRADAのいけ好かないビルの前を通って、恵比寿にあるアン・ミナールに急いだ。先週までの猛暑はどこへ、そろそろ半袖では肌寒く感じられた。

 こころが挫けそうなときも、明人は仕事を続けた。彼にとって自分とこの世を引き留める手綱は、光と仕事だけだった。

 事件があった後もアン・ミナールは明人にとって心地良い場所だった。騒動からまだ日が浅い頃、アン・ミナールを訪れると、矢須子が大勢のスタッフの前でネタにして笑ってくれた。

「あんたもドジね! ウソだらけの週刊誌にハメられて!」

 どれだけ救われたかわからない。

 ところがその日、事務所兼ギャラリーに足を踏み入れると、いつもは活気があるスタッフがしんとしていた。高い天井いっぱいを覆うバルーンも気のせいか、色を失っている。明人はわざと能天気な声を上げた。

「いやあ、今回のリノベは手こずっちゃったよ。矢須子は?」

 その名前を発したとき、まるで禁句のようにスタッフの間に緊張が走ったのがわかった。

 女性スタッフのひとりが明人を隅の方へと促した。

「明人さんは身内だから、絶対黙っててくれますよね」

 有無を言わせぬ口調だった。そこで明かされた話に、明人は全身を貫くほどの衝撃を受けた。

 矢須子の夫の拓海が離婚を切り出したという。拓海は長年不倫をしていた。しかもその相手が矢須子のアシスタントの咲だというのだ。矢庭にそう聞かされても、明人の頭には、いつもずり落ちる眼鏡しか思い浮かばない。

 さらに驚くべきことは、十九歳の長男一貴、高校生の次男健太郎、末っ子のメグまで父親の不倫を長年黙認し、この離婚にも賛成しているという。耳を疑わずにはいられなかった。

「なんで」

 明人はそれだけ発するのがやっとだった。

「上の子が来年家を出るし、メグちゃんも私立の中学に進学が決まったので、いいタイミングだと思ったようです」

「矢須子は」

「ショックで広尾病院に入院しています。誰も面会に来ないでほしい。放っておいてくれと」

 愕然とした。こんなことがあっていいのかと、明人の頭の中はぐるぐると回る。それ以上言葉が出てこない。あとはスタッフが何か話しても、うわの空だった。

「くれぐれも内密に」

 明人は溜め息もつけずに、椅子から立つ。足元の萎びた風船を拾う。ここでもひとつ夏が終わったと、明人は感じずにはいられなかった。

—第19回「男は去勢されたまま生きてはいけない。俺はどうしたい?」は5月22日公開予定です。お楽しみに!

ほぼ主夫作家・樋口毅宏が本音全開で描く、パパどうしのラブストーリー

この連載について

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東京パパ友ラブストーリー

樋口毅宏

有馬豪は、渋谷にあるファンドマネージメント会社のCEO。30歳のイケメンであり、イクメンだ。 娘の亜梨が通う保育園で、鐘山明人というおっさん建築家と知り合い、飲みに誘われる。 これが、それぞれの妻を巻き込んでの地獄の幕開...もっと読む

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