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美砂が目を覚ますと、白い天井が見えた。傍らには明人がいた。
「美砂、美砂っ」
泣きながら何度も自分の名を呼ぶ。看護師が来て、明人を制する。
「気がつかれましたか。過呼吸でこちらまで運ばれたんですよ」
ぼんやりした頭でそれを理解しようとする。あとで聞いた話では、第一発見者は明人だったという。虫の知らせがあったらしい。美砂の携帯電話にかけても電源は切られている。走って家に戻り、玄関を叩いても反応はない。明人は鍵の緊急サービスに電話をかけた。テーブルの近くで横たわる妻を見た瞬間、心臓が止まりそうになった。それでも手首に傷がなく、ガスも漏れておらず、胸に心音があるのを確認すると、美砂を背負って、病院までのタクシーを捕まえたそうだ。運良く、外で張っていた記者たちはいなかった。
「点滴が済んだら帰れますからね。旦那さん、良かったですね」
ちょっと大袈裟だと思うけどと、小声で言い残して看護師が去る。明人は変わらず美砂のベッドの端に顔を押し付けながら泣いていた。
美砂は白い天井を眺めながら、そういえばこの人は出会った頃から泣き虫だったと、揺蕩う意識のなかで思った。
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まなみが自分でもいちばん驚いたのは、豪がふた回り近く上の男と不倫を重ねていたことではなく、愛娘の亜梨が憎らしく感じてしまうことだった。あの男の血を引いた子かと思うと、血が沸騰する思いに駆られた。この手で怒りを摑めそうな気がした。
カードを使い、ホテルに連日泊まった。亜梨も一緒だった。保育園に連れて行って、保育士や他の保護者たちから意味ありげな目で見られたくなかった。以前は連れて歩くのが自慢の可愛さだったのに、いまは見ているだけでむかっ腹が立ってくる。どうして連れてきてしまったのだろう。子育ての苦労をあいつに味わわせる、いい機会ではなかったか。亜梨も母親からどう見られているのかわかっているようで、一切のわがままは鳴りを潜めていた。レストランに自分だけ行って、ホテルの部屋に一日閉じ込めておいた亜梨にコンビニのパンを与えた。自分は腹癒せに服を新調したが、亜梨には同じ服を連日着せた。風呂にも入れず、下着も同じものを穿かせた。
もし「子どもに罪はない」などと綺麗ごとをほざく輩がいたら撲殺しかねなかった。
顔を汚したまま、束の間の眠りにつく亜梨を尻目に、まなみは同じことを考える。
前回の浮気は本妻の矜持で凌いだ。しかし今回は違う。
相手が男なのだ。複雑なじゃんけんに頭が割れそうになる。
豪と初めて会ったとき、この男なら大丈夫そうだと感じた。この男なら、すべて掌に乗せて転がせると。
まなみが豪の前に付き合っていた男は妻子持ちだった。黒歴史のトップ事項。魔が差したとしか言いようがない。若い男にはない優しさを持ち合わせていた。会えばいつもとびきりに優しかった。しかし同年代が次々と適当な男を捕まえてウエディングベルを鳴らすのを見送るうち、自分の若さが搾取されていることにようやく気付いた。いつ奥さんと別れるのと問い質すと、男は露骨に嫌そうな顔をした。ベッドと同じ人物とは思えなかった。別れを切り出したのはまなみのほうからだった。男の会社に中傷ビラを配る復讐でほんの少し気が済んだ。
まなみは失われた時間を取り戻そうと躍起になった。今ならまだ間に合う。高学歴はもちろん、高収入で、社会的にも高い位置にいる男を捕まえられる。そして二歳年下の豪と出会い、その願望は叶えられた。
亜梨を産んだとき、これで「契約」はより強固なものになったと思った。豪の家の人間は代々優秀だ。ルックスは自分に、勉強ができるところは豪に似てほしい。万が一離婚するときが来ようと、愛は消えてもスペックは残る。あとは悠々自適な慰謝料と生活費で過ごす。
同じ頃、かつて付き合った妻子持ちの男は倒れて寝たきりになったと風の噂で聞いた。
──よかった。そんな人と結婚しないで、と思った。
私に歯向かった者は必ず罰が下る。そう考えると無上の悦びを感じた。
豪といて幸せだった。保障された生活があった。このままずっと幸福でいられると思っていた。なのに。なのに。
いつからふたりの関係は始まっていたのか。いずれにせよ、病院に行かなくてはいけない。その至れり尽くせりぶりにすべての妊婦の垂涎の的となっている山王バースセンターに足を運んだ。採血して、HIVはもちろん、あらゆる性病をチェックしてもらった。検診の結果、軽い梅毒と診断された。「赤ちゃんには影響はないと思います」と医師は話した。「影響はないと思います」? それはどの程度の確証を持って言えるのか。何度も医師に詰め寄った。
半ば放心状態で待合室の長椅子に尻をつく。亜梨は母親の顔を盗み見て、少し距離を置いた。小さな頭なりに考えた護身だった。まなみはふらふらと立つ。捨てられると思い、亜梨はあとをつける。トイレに入るなり、まなみは娘の頰を叩いた。感情的な言葉を降らせて、亜梨の顔に雨あられの打擲を振るった。子どもの叫び声がするほうに病院関係者は必死で駆けた。女子トイレの床で、娘の上に跨る毒母を押さえつけた。
10
うちん時代は家ん中はお父さんがいちばんやけんね。やけん美砂が外で働いて、明人さんが家事や育児ばしとると聞いたときは、時代も変わったなて思うたもんや。
そうやなあ、美砂は子どもん頃から女ん子らしゅうなかちゅうか、良う言えば活発で、悪う言えば、こうと決めたら、誰が言うても耳ば貸さんていうか。
お父さんも生きとるうちに何度も零したけんばい。美砂が男やったらなあって。うちもそう思う。
うちね、ここだけん話、美砂はうちが嫌がることば知って、ちゅうより、嫌がらせんために明人さんと結婚したて思うとるばい。まああん子も、子どもが産みとうて、ばってん年齢的にリミットが近かったけん、いちばん手ごろな相手があん人やったんやなかとねえ。そりゃ家んことも光ちゃんのことも世話してくるるけん、良かったかもしれんばってん、ああなっちゃねえ。こぎゃんこつ言うたら何ばいけんど、うちゃはじめから長続きはせんやろうな思うてた。
うちは、熊本であん子の弟家族と住んどる。ええ嫁さんと結婚したね、あん子は。三歩下がって男ん人ば立つるところがあいなっせ。いまどき古風言うんと。
男ん人もね、口では男女平等ば唱えてん、「女性の社会進出、結構や」言うてん、「自分ん地位ば脅かさん程度に」って条件付きばい。
男はなんやかんや言うても、妻には尽くしてほしかて思うとる。
共働きばしよる夫婦だって、もし男に稼ぎがあったら、女には家ん中におって、子どもの世話ばしてほしかて思うとるばい。野球選手ば見ても、奥さん、ダンナの世話ば一生懸命しとるやろ。それでよかばい。知恵がある女んほうが不幸やて思うばい。日本では。ほんとはみんなそう思うとるんやなかと。言うたら怒らるるだけで。
やけんこん国では、女性で出る杭は必ず打たるる。そぎゃんもんばい。
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