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あり、パパのことすき。
ママのことすき。
パパにあいたい。
彼らにとって人生最悪の夜から数日が経過した。予想通り、いや、予想を遥かに超える悪夢がやってきた。
まずは週刊誌が発売前日に公式アカウントでツイートをアップした。これで導火線に点火された。
週刊現代 @shukan_gendai
〝キレすぎる都議〟東雲美砂都議の夫 カリスマ設計士が株式仲介会社社長と〝ゲス不倫〟ならぬ〝ゲイ不倫〟─スクープ速報 #東雲美砂 #スクープ速報 #週刊現代
これに次々とネット速報が乗っかった。当該記事が掲載される発売日当日には、朝から複数のワイドショーが番組のオープニングから大々的に取り上げた。「東雲美砂さんのこれまでの議員活動を紹介します」と、議会で演説し、激しい野次が飛ぶ中、警備員によって壇上から強制的に退場させられる光景を繰り返し流した。明人が設計士として活躍してきた記事を見せた後、元愛人の思惑通り、豪のことにも触れた。「都内にある、歴史を持つ株式仲介会社社長」として、一般人への配慮からA氏として取り上げ、AZ OptionのHPから拾ってきた豪の顔写真にモザイクをかけていた。元愛人が提供したのだろう。明人と豪が時間差でホテルに入る写真を公開した。
〝web現代〟のロゴが入った、美砂と明人を直撃する映像まで放送された。酒により顔が浮腫んだ美砂と、痛々しい様子の明人は、視聴者の安い想像力を刺激した。
スタジオに戻ると、義憤に駆られたとばかり、かつて奇抜な番組ばかり作っていたプロデューサーが口角泡を飛ばした。
「しっかりしてほしいよね。これじゃあ美砂議員に投票した有権者ががっかりしてるよ! お子さんもまだ小さいのにね、巻き込まれて可哀想に。このふたりには親の資格がないよ」
別の放送局でも、カツラを被っていることがこの国の公然の秘密である男性司会者が、ゆゆしき事態といった表情で、レポーターに訊ねた。
「それで、この東雲議員の御主人と株の会社の社長さんは何かコメントしてるの?」
「まだです。東雲議員の事務所に訊ねたところ、ファックスで〝東雲美砂の夫の鐘山明人がA氏と友人以上の関係があるかのように報じられていますが、そのような事実は一切ありません〟と返答がありました」
司会者が苦笑する。
「噓はいけないよ、噓は」
「ですよねえ」
快活な笑い声が飛びかう。こづかい稼ぎのコメンテーターの面目躍如。したり顔のオンパレードだった。
事務所の電話は鳴りやまない。ほとんどが支持者を名乗る、野次馬の輩だった。対応に忙殺され本来の業務は不可能となり、秘書に相談された美砂は、「週明けまで閉鎖しましょう」と伝えた。
美砂は対応に追われた。記事が出る前々日、立憲民主党の都議会幹事長と地元の後援会会長には謝罪とともに報告した。それぞれ、「表に出るな」とのお達しだった。「自分の不倫ではないし、議員活動とは直接関係ない。──しかし、想定外に尾を引いた場合は会見を開く」という考えで一致した。美砂は誰もいない居間でひとしきり頭を下げた。
電話を終えると、矢継ぎ早にスマホが鳴る。反乱を起こした機械のように、ひっきりなしにがなり立てる。美砂はスマホの電源を切った。でないと気が狂いそうだった。
騒動があった夜、明人は淡々とした口調で言った。
「離婚してくれ」
美砂は即座に返答した。
「それはアキちゃんが決めることじゃない」
それでも明人は鍵を置いて家を出ていった。キャップを目深に被り、数日分の着替えをバッグに詰めた。玄関で靴を履いた後、美砂のほうを向いて、すまないと言い残して。
美砂は引き留めなかった。以前の美砂だったら、こんなシチュエーションになったら、飛び降りようとして明人を思い留まらせたか、泣きながら明人を詰り倒し、彼を刺し殺してから自分も死んだのではないかと思う。しかしあの夜、まなみの愛と嫉妬に狂った振る舞いにわが身を振り返り、冷静になったのは間違いのないところだった。
かといって明人を許したわけではない。沸点を超えた怒りの後に、まんじりともしないまま朝を迎えて、光を保育園に送った。明人にまかせきりなので手はずがわからず、保育士にひとつひとつ訊ねた。事情を知っているのだろう。保育士の目が冷たく感じられた。
明人がいないと光の面倒はもちろん、家は荒れ放題になるかと思いきや、どうにかなった。もちろんそれまで明人が家事を済ませていたからなのだが、てっきり彼がいないとこの家は回らないと思っていただけに拍子抜けした。
とりあえず帰ってきなよとメールをしたいが、まなみにスマホをトイレに流されたことを思い出し、むかしのひとはこういう場合、どうやって連絡を取ったのだろうと考えた。自ら命を絶たないか、気を揉んだ。明人にはそうしたところがあった。それだけが心配だった。
美砂は保育園の送り迎え以外は外に出ず、家でじっとしていた。カーテンを開けることもしなかった。腹が減ってもウーバーイーツを利用することはなかった。また誰かが配達員とともにセキュリティーを抜けて、今度は美砂の家に土足で入り込んでこないとは限らない。明人が防災用にストックしていたカップ麵やレトルトカレーや冷凍うどんに順番に手を付けていったが、箸は進まなかった。産後、あれほど瘦せたいと思っていたのが皮肉な形で実現した。
たまにスマホを起動した。着信が百件を超えていた。見てはいけないと思うのに、自己PRと情報収集の一環として利用していたツイッターを覗き見た。フォロワーが急激に増え、かつてないほどのリプライが押し寄せていた。相互フォローをしている人からは、美砂を気遣うDMが大量に届いていた。ひとりに連絡をしたら、全員にしなくてはいけなくなる。どっと疲れが押し寄せてきて、スマホの電源を切った。
あれから一度も寝室には足を踏み入れていない。明人と豪がここで交わったのかと思うと、おぞましさに嘔吐を堪え切れなかった。
疲れ果て、ようやくうとうとした頃、扉を激しく叩く音に起こされた。また大きな問題が発生したのだと、美砂は予感に総毛立つ。
「美砂っ、美砂っ」
その声は、いちばん会いたくない人だった。
「お母さんたい、開けて」
三年前に熊本に転勤した弟夫婦と住む、母の聡子だ。ドアを開けると、猛禽類を思わせる、目力の強い眼差しに萎縮した。
むかしから母が苦手だった。物心ついたときから嫌いだった。
「あんた大丈夫ね? 電話も出らんもんだから心配で、お母さん駆けつけてきたばい」
終戦の年に、九州の素封家に生まれた母は、美砂が中学生のときに国立大学の研究員だった夫を亡くしてからというもの、娘と息子への干渉を生き甲斐とした。進路はもちろん、部活動、友人選びにまで大いに口出しした。そのたび美砂は声を張り上げて抵抗した。高校生のとき、初めて彼氏を家に連れて行った。
「あん男は美砂にふさわしゅうなか」
予想通りの母の感想だった。その男のことはたいして好きではなかったが、あてつけに処女を捨てた。その後も母親が嫌がることには、ひと通り手を出した。ミスコンもそうだし、遊びでハッパを吸った。母親の美意識が許さないような男と寝まくった。
母親の圏外へ逃れようとした半生だった。母親に勝つため、これまでやってきた。
聡子は慰めも束の間、美砂に言いたいひとことを浴びせた。
「だけんお母さん言ったとね。あんたが鐘山さんと結婚するば言いよったときに、〝あんたん相手が務まるんか〟って」
そこには様々な意味が込められていた。都議東雲美砂にふさわしい地位や稼ぎがある男なのか。これまで手塩にかけ、教育費にもひと財産以上の投資をしてきた。それに見合う男なのか。
母親は自分が正しかったと直接言いたいために東京まで来たのだ。
言わせたくなかった。死んでも言わせたくないひとことを、この女に言わせてしまった。
美砂は泣いた。さめざめと、ただ泣いた。
聡子は美砂の背中を撫でた。その涙に、悔し涙が含まれていることを知らない。
聡子は娘の涙に嗜虐性を搔き立てられた。
「こぎゃんときに言うことやなかばってん、〝お母さんは鐘山さんのことを知らないだけで、あの人は出るところに出たら名が通っとるんよ〟言うとったばってん、あんたがテレビに出てん、クレジットに〝夫は建築家の鐘山明人〟と出たことなかばい」
本当に、こんなときに言うべきことではなかった。
ネットで自分の名前を検索する。予測変換に「夫」や「鐘山明人」と出たのはずいぶん前だ。テレビの報道型ワイドショーに出演するとき、「都議。早稲田大卒。夫と長男の三人暮らし」と簡単なプロフィールが出る。「建築家の夫」とは記されない。ディレクターを通せば考慮してくれるかもしれない。しかし、明人も何も言わないし、世間からしたら明人の知名度はないに等しいのだろうと思う。
「な、お母さんの言うた通りやったやろ。わかればよかんばい」
次に聡子が取った振る舞いは、美砂には許しがたいことだった。聡子は美砂を産み、育てた女の権利として、泣くための胸を貸そうとした。
それに気づいて、美砂は聡子を突き飛ばした。
「何ばすっと!」
拒絶された聡子は、娘の行動に目を疑った。
「出てって!」
「素直になりなっせ」
美砂は聡子の頰を張った。初めて親に手を上げた。ふたりの間に沈黙が走る。
聡子が驚いているうちに、美砂は聡子の手土産の辛子蓮根を玄関の外に放る。力ずくで母親を追い出した。
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