まなみの妊娠を知った美砂がお祝いをしましょうと彼女にメールをした。
八週間経ち、まなみは安定期に入り、悪阻も落ち着いた。美砂もこのところ本業だけでなく、テレビ出演が相次いでいた。仕事の調整をつけ、日程が決められた。何が食べたいかも含めて、夫の意見は後回しにされた。
互いにLINEすら送らず、保育園の送りもすれ違いだった明人は、美砂から聞かされた「今度の土曜日」が、内心待ち遠しかった。豪の顔を見たら何もかも許してしまうとわかっていた。
そしてその日はやってきた。子どもOKの個室があるお店も検討したがどこも埋まっていた。前のように有馬宅だと妊婦のまなみが用意をすることになる。ごみの片付けも含めて美砂はやらせたくなかったが、「うちのほうがラクなので」と、明人と美砂と光は有馬宅に招かれた。幸福なダイニングキッチンは夏向けのカーテンに衣替えし、さらに幸せな色合いが増したように見えた。外に出ないはずなのに、まなみはナチュラルメイクをばっちりと決めて、雑誌から抜け出てきた読者モデルのように見えた。
料理の腕に自信のない美砂は手料理を持参せず、ウーバーイーツで賄うことにした。まなみと豪の苦手な食材を聞き、赤坂の中華、恵比寿のイタリアン、広尾の野菜ジュースをオーダーした。
ゆったりしたワンピース越しに、美砂は光の手を取り、まなみのすでにこんもりした腹部を触らせた。
「赤ちゃんがいるんだよ。光は覚えてる? ママのお腹にいたときのこと」
光は難しそうな顔で答えない。
「亜梨ちゃん、もうすぐお姉ちゃんだね。嬉しい?」
亜梨は満面の笑みで「楽しみー」と答える。
「もうどちらかわかる?」
「男の子なんです。亜梨はおとなしかったけど、男の子は手が掛かるって聞くと……」
「大変だよ。男の子のほうがすぐに熱が出るし、生まれてから一歳が過ぎても毎週病院に診てもらうことになるし、歩けるようになったらなったで暴れん坊で目が離せない」
「全部押し付けてごめんね」
美砂が明人の肩に手を置く。
「この人、内科から皮膚科から歯医者から定期健診から、全部連れて行ってくれてる」
「やさしー。でも豪さんも、今回亜梨のときより悪阻がつらかったんですけど、背中を摩ってくれたり、とっても優しかったです」
「大事だよね。女の人は妊娠中に男が冷たかったりすると、一生恨みを忘れないって言うし」
「そうだよ。豪さんえらい」
チャイムが鳴る。運ばれてきた料理を皿に移し替え、舌鼓を打つ。
「うちもよくウーバーを利用してます」
「便利だよね。ここらへんは美味しいお店が多いし」
「このホタテとキノコのクリーム煮、美味しい」
「よく頼むの。アキちゃんごめんね、手抜きばかりで」
晩餐会が笑い声に包まれる。またチャイムが鳴る。豪は受け取りに出る。光もついていく。明人が声をかける。
「すいません、もてなされる側の人に何度も立たせて」
豪が配達員から受け取った料理を光が寄こせ寄こせと催促する。亜梨と一緒にまなみに渡す。水牛のモッツァレラとトマトのムース、うずらとラグのニョッキが食卓に並ぶ。
「これも美味しいー」
「喜んでもらえてよかった」
時間は平穏に流れていった。豪は明人と時折目が合うと、意識して視線を外した。明人は豪と目が合うと、さしたる意味などないように、光のほうを向き直して、食べたいものを取り分けてあげた。
この手の席にありがちな四方山話は色々なところに転がっていった。
「いまのNHKの朝の連ドラ見てる? あれどうなるのかね。主人公が仕事を辞めて家庭に収まる展開になるとテンションがダダ下がりするんだよなあ。あ、この家、テレビなかった」
「こないだあったクレーム電話が、〝おまえらは税金を使って町内会の会合に出ている〟って。お弁当が出る会議とか、お酒が出る集まりとか、お金を出さないわけにはいかないのに。〝あいつはタダで飲み食いしていった〟って陰口を叩かれたくないし」
「子どもをふたり育てるのにいくら掛かるんですかね。ようやく親のありがたみがわかるようになってきました」
「昨日テレビで子ども食堂のことを取り上げていたよ。第二次安倍政権が誕生したとき、真っ先にやったことが生活保護費の削減だった。オスプレイを買うためにアメリカに四〇〇〇億円出すなら、保育士に高い給料を払って、認可保育所を作れ。しっかりして下さいよ、都議員センセイ」
「ハイ、すいません」
ワイングラスを揺らす豪にまなみが話を振る。
「あなたは何かないの」
「うーん、内外債券一体型ファンドの話とかしても面白くないし、僕もこんなときまで仕事のことを考えたくないからね」
明人は椅子から立つ。
「トイレですか。出て玄関の右です」
豪が立ち上がり、明人を案内する。居間を出て、玄関の脇の電気のスイッチをつける。そこは居間から死角になる。明人は豪の手を握った。互いの視線が交差する。
──まだ怒ってる?
──もう怒ってないよ。
一瞬でふたりはわかりあう。
トイレから明人が戻ってきたのを待って、美砂が提案する。
「スイーツ頼まない? まなみさんも食べたくない? お酒飲めなかったし」
子どもたちも含めて全員が賛成する。原宿の知る人ぞ知るアイスを注文した。
明人と豪はふたりだけにわかる目配せを交わす。席が離れているからできないが、テーブルの下で手を握りたい。豪はどうにか明人が機嫌を直してくれたことに安堵し、明人は明人でやっぱり豪を手放せないと、会わない間強く思った。
チャイムが鳴った。明人が豪を手で制して立ち上がる。光が付いて行く。玄関を開けて配達員から受け取る。明人が光に手渡す。光が数少ない喋れる単語、あいすあいすと言いながら美砂のほうに駆けた。ありがとうございましたーと玄関を閉める刹那、後ろから駆け寄ってきた女が閉まる扉に手を差し込んだ。それはあっという間の出来事だった。
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