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ふたりが冷静さを取り戻し、ようやく会おうとした矢先、明人は光を連れて山王病院に行った。光の顔のケガの経過を診てもらうためだった。そこでまなみと偶然会った。まなみは化粧っ気がなかった。女はこういうとき、二種類しかない。ひとつは葬式や不幸の場。ふたつめは「女」であることを飾らずに証明できるときだ。
まなみは明人を見つけるなり、やわらかくはにかんだ。いつものように、ひとを掌に乗せるために。
「三ヵ月だって言われました」
明人は言われた言葉の意味がわからなかった。まだ宇宙人や幽霊が現れたほうが現実味があった。なのに、口をついて出ていた。
「おめでとう」
明人の脳裏を掠めるのは、皮肉屋の母親の口癖だった。
──人間、言ってることと腹の中は違う。
言われるたびに笑って返していたが、明人は身をもって親の箴言に震えた。
「おめでとう」
明人は繰り返した。しかし光を握る手に力が籠って泣かしてしまう。どうしたどうしたと抱っこをしながら、ようやく我に返る。自分はいまどんな顔をしているだろうと思う。
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まなみは広々としたダイニングのソファで優雅なお茶を嗜む。妊娠の経過は順調だった。二人目が、しかも男の子が生まれたら、自分の地位はより盤石なものになる。
ソファに深く身を委ねながら、独身だった頃、友達に誘われて新宿二丁目のお店に付いて行ったことを思い出す。この回想は時折予期せぬ形でまなみのこころに甦った。
「男をやめたらラク。男がスキって言えるようになったら、怖いものはなくなった」
モーリさんはそう言っていた。ヘルメットのような黒いヘアスタイルと、厚化粧でも濃い目の青髭が隠せない、年齢不詳のママさんだった。逞しい二の腕をしていた。いちばん強い性別だと、まなみは思った。
「男が競い合うのは男。いがみ合うのも男。女はものの数にも入らない。男は生まれついてから死ぬまで、金がほしい、成功がほしい、遊びがほしい、危機がほしい。命の駆け引きをし続けて、自分以外の男と奪い合う」
友達が無邪気に訊ねた。
「女だって色々ほしいですよ。男の人は私たちに何をくれるんですか」
モーリは言った。
「あんたたちには、愛でも与えておけば十分でしょ」
友達は笑ったが、まなみは笑えなかった。
モーリは続けた。
「いい? 男は、本当は男が好きなの。でも男とはセックスできないから、仕方なくあんたたちとヤッてるの」
「なんでしないんですか?」
「あんたほんとバカね。ヤッちゃったらもう終わりでしょ。大事なものを失くしたくないから。友達に戻れなくなるから、セックスしないの」
「えー、男のどこがそんなにいいんですか」
モーリは、小娘は無知とでも言いたげな笑みを浮かべた。
「男は女みたいにめんどくさくないし、御機嫌を取らなくていい。気を遣わないし。子どもの頃からそう。鬼ごっこも、缶蹴りも、サッカーも女とやって楽しいわけないでしょ。女とは怪獣の話もジャッキー・チェンの話もできないし。なんで男の子はみんな野球選手になりたいんだと思う? 大っぴらにケツを叩けるからよ。
男は男に目覚めたら、女なんか平気で捨てる。平和な時代に優しく生きていても、むかしの友達に誘われたら、カウボーイのように去っていく」
あのときのモーリさんの顔。いくつも大事なものを捨てたはずなのに、もっと大きなものを得た者のみができる笑みを浮かべていた。あのときの至言はいまもまなみの中にある。
なぜそれを不意に思い出したのか、まなみにはわからなかった。妊娠中のため精神安定剤をやめたせいかもしれない。
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