火花が散るような夏の思い出を通り過ぎて今がある、母になっている。

【第13回】
池袋の自由学園明日館で、フランクロイドの建築物を前に
誰にも言えない思いを吐露する明人。
まなみは三度目の無言電話を取った。美砂は都知事の高屋敷と面会した。
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 豪は次々とスケジュールをこなしていた。この日もトレーダーと打ち合わせをし、社内ミーティングを開き、投資顧問会社の社長と意見交換をした。明人と会っているとどうしても時間が取られ、皺寄せが来てしまう。明人は返事がないとさらにLINEを寄越すし、いきなり「今から会えない?」などと言ってくる。家事や育児に追われているとはいえ、自由な時間がある人の言動だと思った。

 どうしても苛々してしまう。大手の証券会社の社員の妻が、夫が自殺したのは豪のせいだと訴えてきたためだ。

 その社員は長者番付に載ったことがある不動産会社の社長との信用取引で大穴を開けた。社長は証券会社の社員に、はしもと金属の株を百万株買うよう依頼した。社員は言われた通りにすれば良かったのだが、はしもと金属は数日目立った動きはなく、井上製菓の株が急上昇していた。信用できる複数の仕手筋から買いの声があった。社員は不動産会社の社長に内緒で、井上製菓の株を買った。実は社員の動向を窺っていた不動産会社社長はそこを見計らって井上製菓の株を全部売り払った。

 社員の負債はすべて不動産会社の社長が立て替えた。その社長や仕手筋を裏でコントロールしたのは豪だった。以前から社員がそういうことをやっていると知っていた。

 社員が首を吊った青山のマンションに、豪はまなみと亜梨と住んでいる。無論、ふたりにはこの部屋で何があったか黙っていた。豪にマンションを売却しても借金は返済できなかったため、社員の未亡人は不動産会社の社長の愛人になった。彼女は元グラビアアイドルだった。ウィンウィンで話は終わったはずだった。

 父の尊徳がマネーゲームの初歩として教えた手口だったが裏目に出たようだ。

「あの、株が暴落したらどうなるんですか? お金が紙くずみたいになっちゃうんですか?」

「ご安心下さい。ポートフォリオを組むことでリスクを低減できます」

 パーテーションの向こうから、瀬島が新規の接客をしているのが聞こえる。株に興味を持ち始めた人にいちから説明している。AZ Option宛てに問い合わせの電話やメール、来客は増加していた。仕事は順調と言えよう。業界の人間と会うと、誰もが「このまま好調の波が続いてほしい。東京オリンピックの後も今の首相が務めてくれないか」と口にする。

 現政権を支持する流れの背景には、民主党政権時より株価が二倍になったことが挙げられる。これは日銀のETF(上場投資信託)買いと国民の年金基金の投入によるものだ。これまでに六〇兆円を株式市場に注ぎ込んでいる。言うまでもなく、これはめくらましに過ぎない。実体経済とはほど遠い。いまに途轍もなく大きな反動が来る。破滅が待ち受けている。そのときこの国はギリシャのような終わりを迎えるのではないか。そして完全に終わるならまだしも、たいていは終わりの後にも続きがある。

 人の親になると、この国の未来が気がかりになる。亜梨の将来が心配になる。

 不意に我に返る。不倫をしている自分にそんな資格があるのか。

 デスクに置き去りのDMの中から、画家の友人の個展の案内状を見つけた。

 ──まだあきらめていないのか。

 豪の中に色褪せた感情が湧き起こる。

「社長、このデータですが」

 営業部長が豪に訊ねる。豪は案内状をゴミ箱に放る。瞬時に考え抜き、決断を下す。走ることをやめたら、破滅が肩を摑んでくる。

 明人は図書館で借りたゴーギャンの評伝を読み終えると、ふうーっと口から長い息を吐いた。愛する人の過去を探るような気持ちで、ページを捲る手が止められなかった。

 株式仲買人だったゴーギャンは三十五歳のとき、仕事を辞め妻と五人の子どもを棄てて画家になった。しかしまったく売れなかった。仲が良かったはずのゴッホと喧嘩になり、癇癪を起こしたゴッホは耳を切った。ゴーギャンは逃げるように当時のフランス領タヒチに渡った。そこで描いた作品をパリに送ったが、ほとんど黙殺された。

 四十八歳のとき、ゴーギャンは手紙にこう書いた。

「決定的に私は悲運の星の下に生まれた」

 翌年、離れて暮らしていた、ゴーギャンの娘が死んだ。ゴーギャンはどんどん荒んでいき、アルコール依存症になり、梅毒による体の衰えは進み、それでも絵筆を手放さなかった。ゴーギャンにとって絵筆は現世と自らを繫ぐ手綱だった。

 そしてゴーギャンは大作『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』を完成させるものの、現代ほどの評価は得なかった。

 タヒチよりさらに未開のヒヴァ・オア島に渡ったゴーギャンはそこでも問題を起こす。島民に通学と納税反対運動を焚きつけ、現地のカトリック司教や憲兵と争い、禁錮と罰金刑を命じられる(支払う金がゴーギャンにはなかったが)。

 そうしているうちに目が見えなくなり、歩けなくなり、ゴーギャンは苦しむだけ苦しんで死んだ。一九〇三年、五十五歳のときだった。日本では明治の終盤、十六歳の美少年、藤村操が華厳の滝に身を投げた年。

 豪の父親と会ったことはもちろんない。しかし豪の父が、何か願いのようなものを息子に託したのではないか。豪の父親は妻と、つまり豪の母と南の島で暮らしているというが、本当は何もかも捨てたいと思っているはずだ。人生の最後の最後で。

 ゴーギャンの作品を愛する者は、ゴーギャンの人生に憧れを抱いている。しかしゴーギャンの生涯はあまりに峻烈苛酷だ。

 明人がさらに驚いたのは、ゴーギャンに人生最大のダメージを与えた愛娘の名前がアリーヌだったことだ。豪はそこから娘の名前を亜梨と付けた。これには唸ってしまった。

 ふと時計を見る。明人は完成した設計書を携えてアン・ミナールを訪れることにした。データを送れば済むのだが、家に籠って仕事をするため、話し相手に飢えていた。矢須子や他のスタッフたちの活気がある仕事場を見ているだけで楽しいこともあった。

 矢須子は不在だった。越谷咲がテーブルに麦茶を運んでくれる。

「咲ちゃん、ありがとね」

「明人さんこそ暑い中お疲れ様です」

 咲は矢須子のアシスタントとして働いて七年になる。気立てのいい子だが、正直なところ仕事はできない。矢須子から愚痴をよく聞かされる。

「いまだにAdobe系ソフトをうまく使いこなせないし。感じがいいのが取り得だよね。お茶くみ兼ドジっ子のムードメーカー」

「でも咲ちゃんに応対してもらった客は、アン・ミナールに好印象を抱くと思うぞ」

「だから雇ってんのよ」

 咲は話しながら大きな眼鏡がずり下がり、数分ごとに上げるを繰り返す。

「なんか明人さん、楽しそうに見えますよ」

「そうかな、フツーだよ。俺の感じの良さは昨日きょう始まったものじゃないし」

 咲はカラカラと笑う。もうすぐ三十のはずだが、性の臭いを感じさせない。自分もむかしはこの手のタイプが嫌いではなかったと思う。

 勢いよく扉が開く。拓海と子どもたちだった。Tシャツに短パンと、夏の定番の格好をしている。

「おー、よく日に焼けているなあ」

 拓海がサングラスを外す。

「家族みんなでプールに行ってきたんですよ」

「仲いいなー。矢須子も?」

「いや、仕事ですね」

「じゃあ家族みんなじゃないじゃないか」

「そういえばそうだ!」

 高校生の次男、健太郎が言うと、その場にいた者たちで笑った。

「明人さんは、家族でどこか行かないんですか?」

 訊かれるまで、何も考えていなかったと思った。

「光くんもまだ小っちゃいですもんね」

「うん。でもせっかくだから、行きたいよな。夏休みだもんな」

 明人はすぐに好きなひとの顔を思い浮かべる。

 絵に描いたような入道雲が紺碧の空に立ち昇る。お天道様が瞬きするたび、海辺の砂が微かに燃える。潮の臭いが素肌に紗をかける。海水浴場、パラソルとデッキチェアの衛星。ペットボトルの小湖が揺れる。海の前では誰もが子どもになる。誰もが唆される。

「アキちゃん、豪さんの横に立っちゃダメ!」

 明人は美砂の言葉に、たるんだ自らの腹と、豪の引き締まった肉体を見比べる。

「おまけにその海パン、ダサダサ」

 まなみも笑う。美砂はパラソルの下で、まなみに言う。

「豪さん、細マッチョ」

「水泳部だったんです」

「すごーい。どうりで」

「明人さん、肌キレイですね」

「ムダに美白。毛もないし」

 明人が大声を上げる。

「そこの女子と、元女子! なにをコソコソ話してる!」

「うるさいよ、ライザップのビフォー!」

「豪さーん、亜梨を海に連れてって」

「アキちゃん、光も」


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東京パパ友ラブストーリー

樋口毅宏

有馬豪は、渋谷にあるファンドマネージメント会社のCEO。30歳のイケメンであり、イクメンだ。 娘の亜梨が通う保育園で、鐘山明人というおっさん建築家と知り合い、飲みに誘われる。 これが、それぞれの妻を巻き込んでの地獄の幕開...もっと読む

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