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結婚する前から、親になった友人から聞かされていたが、小さい子どもは本当にアンパンマンが好きだ。両親が一緒とはいえ、見知らぬ家に上がって不安そうな表情を浮かべていた光は、有馬家にあるアンパンマンのおもちゃを見るや、父親の抱っこから飛び降りた。五歳の亜梨がアンパンマンカーのパーツを、ハイと手渡す。光は黙って受け取る。美砂が促す。
「〝ありがとう〟は? 亜梨お姉ちゃんに言って」
光は聞こえないふりをする。
「もう二歳半なのに、全然喋れないんですよ。心配になります」
傍らの明人が頷く。
「スイーツ持ってきました」
近所のヨックモック本店のケーキを手土産にした。
「まあ、手ぶらで良かったのに。ここの大好きなんですぅ」
まなみは内心、鐘山夫妻を及第点だと思った。玄関に入ってくるなり、明人のくたびれたポロシャツと履き古したコンバースには引いたが、美砂のALPHA STUDIOの派手なワンピースに目を奪われた。オシャレ妻と無関心夫。典型的な取り合わせだ。
値踏みしているのはまなみだけではなかった。明人は浮足立つ気持ちをぐっと堪える。
マンションのエントランスからして高級感が違っていた。エレベーターが二基あり、ふかふかの絨毯が敷き詰められた通路を抜けると、愛する人の住み家があった。やっと入れた。開放感のある大きな窓から光が差し込む、最新型のダイニングキッチン。悪くない間取り。黒の革張りのソファ。観葉植物。夜になると映えるスタンドライト。事前に聞いていたがテレビはない。まなみは亜梨にインスタントのものは食べさせないという。意識高い系の妻。明人の、建築家としての視線と愛人の視線がごっちゃになる。
「キレイにしてるわあ」
美砂が感嘆の声をあげる。本心からだろう。家族三人で暮らすには十分な広さ。余計なものはまるっきり置いていない。小さな子どもがいるのに、どことなく生活感がなかった。
「散らかっててすいません」
まなみの言葉が一種の皮肉に聞こえる。
「座っていて下さい。すぐにご用意しますので」
明人と美砂はテーブルにつく。豪はワインセラーから赤のボトルを取り出し、グラスに注ぐ。ラベルからひと目で高級なものとわかる。
「嫌いではないと明人さんから聞いています」
豪の言葉に、美砂は照れ笑いを浮かべる。まなみが前菜を持ってくる。カラフルな色どりの野菜のテリーヌだった。
「すごーい。これ、まなみさんが作ったんですか。レストランみたい」
ここに来た客はみんな同じことを口にする。そのひとことが聞きたくて、まなみは前日から料理を仕込む。
「お口に合うといいのですが」
美砂がフォークで口に運ぶ。
「美味しぃー」
「よかった」
まなみはダイニングキッチンに向かう。細い背中を見つめながら、まあまあの味かなと明人は思う。続けて真鯛のポワレが出てきた。
「これも美味しい。どちらか料理学校に通っていたんですか」
まなみは笑顔で首を振る。豪が代わりに答える。
「全部自己流なんです。妻は一度レストランで食べたら、自分で作って再現できるんです」
「ええ、すごーい」
「唯一の取り得です」
豪は自分で言って苦笑する。
「もう」
まなみもまんざらでもなさそうだ。
明人はムカムカする。こないだはプロポーションがいいことが唯一の取り得だって言ってたのに!
美砂が追い打ちをかける。
「取り得だらけじゃないですか。スタイルもいいし」
「そんなことないですよ」
まなみは顔の前で手を振ると、再びダイニングキッチンに戻った。
「すごいわー」
美砂の言葉に豪は謙遜する。明人は、それ以上ヨイショはやめろと内心で毒づく。ほどなくしてまなみがキッチンから豪を呼ぶ。
「あなたー、手伝ってー」
ふたりで料理を運ぶ。
「鴨のコンフィです」
「私、大好きなんです!」
美砂の声に、豪が微笑む。
「伺ってます」
美砂はナイフでカットし、口に運ぶ。
「美味し~い」
「よかったあ」
「付け合わせのインゲン豆とにんじんも美味しい。ねえ?」
美砂は明人に話を振る。明人も「うん」と同調する。
「ほんとに美味しい」
美砂がワインをあおる。明人が注意する。
「ほどほどにしておけよ」
美砂は口を押さえる。豪がどうぞとワインをグラスに注ぐ。
「毎日こんな美味しいものを召し上がっているんですか」
まなみが答える。
「さすがに毎日は無理です」
「僕は夜遅いこともあるので」
「こんな美味しいものを作って下さるなら、仕事が終わったら帰らないと。明人と飲むより」
明人は妻の言葉が腹立たしい。まなみが微笑む。美砂が続ける。
「お幸せですね、豪さん」
豪は含み笑いをするばかりだ。
「あら、地震?」
美砂が天井を見上げる。明人は貧乏ゆすりを止めた。彼の腹の中は煮えたぎっている。
なんだこれは。安手のホームドラマか。悔しいのはそこに自分も出演していることだ。主人公の美男美女の夫婦を持ち上げる脇役。もてなしを受けているはずがもてなしている。そしてこの女もにこにこしながらそれをわかってやっている。
明人はわざとフォークを落としてテーブルの下に潜る。向かいの豪の足をフォークで刺した。豪は思わず足をびくんと反応させたが、声には出さなかった。
「フォーク、新しいの出しますよ」
まなみの声に明人は、「あ、だいじょぶでーす」と返す。
向こうで遊ぶ亜梨と光と目が合った。
「ふたりだとどんな話をしているの?」
すっかり顔が赤くなった美砂が明人に話を振る。
「やっぱり子どもの話が多いかな。色んな話をするよ。あの保育士が可愛いとか」
「明人さんは保育園で他のママさんたちとおしゃべりをしてますよね。主人はしてますか?」
まなみがちょっと気色ばむ。他の女に色目を使っていないか心配になったのか。訊かれていない豪が口を挟む。
「しょうがないじゃない。朝はみんな急いでいるからね」
林という若い保育士と、亜梨についてちょっと喋るぐらいだと言いかけたが、やはりまなみの顔色を気にしてやめる。
明人は知っている。それは言い訳だ。保護者との付き合いはまなみ任せ。豪は他のママたちと仲良くする必要などないと思っている。なにより豪は、「〖圏点:亜梨ちゃんのパパ〗」と呼ばれるのが嫌なのだ。あれだけ働いて稼いでいるくせに、まるでアイデンティティー・クライシスに陥った専業主婦のようだと思った。
「最近は明人さんからCDを借りて、むかしの音楽を勉強してます」
「むかしの音楽!」
豪の言葉に明人は噴き出す。美砂が明人の肩を叩く。
「そりゃそうでしょ。あんたが青春時代を送っていた頃、豪さんは生まれていないでしょうが」
世代がふた回り近く違う明人と豪は、子どもの頃に見てきたアニメ、読んできたマンガ、思春期に聴いてきた音楽など、まるっきり異なっていた。主に明人が押し付けるように、豪にCDを渡すことが多かった。
「こないだも、ストーン・ローゼズを貸した」
「僕も、いまどきはこういうのが流行ってますよって、ケンドリック・ラマーとかドレイクとか、いまどきのヒップホップをネット上でおすすめして」
「学生みたい」
まなみが冷やかす。豪が言う。
「バブルの頃の話とか、勉強になります」
美砂が言う。
「アキちゃん若返ったよね。豪さんとお付き合いしてから」
「そうかな」
「そうだよ」
「フィーリングが合ったの? 性別以外、共通点がなさそう」
明人はにやにやしている。豪はワインのグラスを口にあてる。
「あんたたち、デキてるんじゃないでしょうね?」 明人が唇の端を意地悪そうに持ち上げる。
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