かつて講談社で「星新一ショートショートコンテスト」というものがあった。その第一回に入賞したことがキッカケで、ぼくは文章を書くようになった。
なので、それ以降も星さんに色々話をうかがう機会があったのだ。食事の席で、お酒を飲みながら……、星さんがポロッと話すエピソードや言葉の端々に「そうなんですか」「なるほど」と感心し、うなづくことばかり。二十代前半の駆け出し作家にとって、すでに大作家である星さんの言葉は宝物だ。『謦咳(けいがい)に接する』という言葉の由来は本で知っていたけれど、「あれはこういうことなのか」と実感したものだ。
星新一の作品は世相風俗を扱わず、それゆえに時代を越えて長生きすることで有名だ。ところが、
「いや、改訂のたびに細かく修正しているんですよ」
と星さんはおっしゃった。
たとえば、「電話のダイヤルをまわした」という表現があった場合、やがて世間がプッシュ式になると、意味がわからなくなる。なので、「電話をした」などの表現に修正しているのだという。この電話の例はわかりやすい。が、それだけではない、かつては「コンピューター」と最後を伸ばして書いていたが、やがて「コンピュータ」になる。こういう細かい表記の修正も行っている。そうすることで文章と世相が乖離(かいり)することを防ぎ、作品が長持ちしているのだという。
「増刷されるから、何度も修正できるんです」
と補足した。
紙の本は、増刷されなければ修正のチャンスがない。星さんの本はずっと売れ続けているから、何年かごとに修正のチャンスがあるということなのだ。これがどれだけ凄いことか、のちに自分が本を出すようになって実感した。だって、ぼくの本はたいてい初版で終わりだから、修正したくてもそのチャンスすらないのだ。悲しい……。
《作品が古びない→売れる→増刷される→時代に合わせて修正する→作品が古びない→売れる→増刷される→時代に合わせて……》
絵に描いたような好循環だ。羨ましい。
そうではあるけれど、一方で、「あえて世相風俗を書く」というやり方もある。なんといっても新鮮な話題は注目されるし、受けもいいのだ。もちろん、すぐ腐るという宿命も背負っている。両刃の剣だ。それは承知の上で書く……ということを、実はぼくはたびたび行っている。なぜか?
のちに読み返した時、五年程度だとたしかにそれは「腐っている」。古臭いし、ダサい。当時それを書いたことが恥ずかしくなる。ところが……だ、十年以上たつとむしろその部分が面白くなってくるのだ。いわば、時代の記録としての価値を持ち始める。むしろ、時を経るにしたがって、だんだんと世相風俗の部分こそが価値を持ち始めることもある。そこが面白いと思うからだ。