はじまりは浮世絵から—絵に摺られた江戸庶民の「欲望」

週末のたびに気になった企画展などに行ってみるけれど、いまいちそれぞれの作品の魅力を味わいきれていないように思っているあなた。美術史の大まかな流れを知れば、アートはもっと楽しく鑑賞できます。『上野に行って2時間で学びなおす西洋絵画史』(星海社新書)で登場したアート鑑賞のプロ“アート・コンシェルジュ”が今回紹介してくれるのは日本美術史のあらまし。なんと、上野にある東京国立博物館をひと巡りするだけで、その全貌をなぞれるんです。アート・コンシェルジュと、その依頼人であるアート初心者の女性といっしょに、「トーハク」を旅しましょう。 初回は一番古い作品から……と思いきや、江戸時代の華・浮世絵からスタート。庶民の芸術のなかから見えてくる、日本美術の魅力とは?(写真=名和真紀子)

 ん、圧倒される……。日本じゃないみたいだ、この突き抜けた壮大な眺めって。


渡辺仁設計の本館

 正門から入ってすぐの池のほとり。ここで待ち合わせのはずだけれど、それらしき人影は見当たらない。

 平日の午前中だから、まだ人出は少ない。敷地があまりに大きくて、いっそうガランとした印象になる。いくつかの大きな建築と、手入れの行き届いた植栽。空が広い。ずいぶん遠くへ来た気分になるけれど、ここは上野で東京国立博物館の前庭だ。

 日本の美術のあらましを、実物を見ながら知ることができたら。そう思って、以前に西洋絵画の流れを教えてくれた、博識なアート・コンシェルジュにお願いをしてみた。すると、ではまた上野で、という話になったので、きょうは思い切って午前中だけ仕事を休んでここにやってきたのだ。

 以前、『上野に行って2時間で学びなおす西洋絵画史』ツアーで案内してもらったのも、同じ上野公園にある国立西洋美術館だった。西洋絵画の流れを大まかにでも理解したい、そういう場所ってないですか?と注文をしてみたら、

—ありますよ。意外なほど近いところです。上野駅でお待ち合わせとさせていただけますか。
 そう言われて、国立西洋美術館の常設展示を、平日の午前中に観てまわったのだっけ。こんどは日本美術をどこで教えてもらえるのかな、なんて思っていたら、またこんな近くだなんて。

「それだけ上野の潜在能力がすごいということですよ。この敷地のなかに日本美術の粋がぎっしり詰まっていますので、ご期待を」

 後ろから声が聞こえて、振り向く。いつのまにか、わたしの少し斜め後ろにアート・コンシェルジュは立っていた。そうして丁寧に、建築の説明をしてくれる。

「いま眺めていらっしゃるのは、並び立つなかで最も古い表慶館。1909年開館、明治後期の名建築で、屋根上の大きなドームがよく目立ちます。ふりむけば、真後ろには、東洋美術を収める東洋館があります。数々の美術館建築を手がけた谷口吉郎の設計で、1968(昭和43)年の開館。簡素な佇まいですが、等間隔で並ぶ柱がリズミカルです。表慶館と東洋館に挟まれるかたちでこちらに堂々と建つのが、本館ですね。旧本館は1882(明治15)年に開館していたものの、関東大震災で損壊。1938(昭和13)年に建て直されました。設計は渡辺仁。ごぞんじですか?」

 聞いたこと、ないです。建築家で知っているとしたら、安藤忠雄とか、あと東京都庁の人は……。

「丹下健三ですね。渡辺仁は彼らのもっとずっと先輩にあたります。その名前は知らずとも、彼の作品はきっと目にしたことがありますよ。銀座に行くと、必ず目に入る建物が渡辺の代表作です」

 ということは、三越か、松屋か。百貨店の設計をした人?

「場所はかなり惜しいです。銀座4丁目交差点の、時計台を持つ和光ビルです。目の前の建築とはずいぶんテイストが違いますけどね。ここの本館は、鉄筋コンクリート建築に瓦葺きの屋根をのせた和洋折衷で、帝冠様式と呼ばれる独特のものです。いつの時代も外界から新しい文物を取り入れ付け加えてきた日本文化の特徴が、本館の姿にはよく表れていますよ」

 きょうは本館を中心に巡るというので、促されて建物の中へ入っていく。エントランスをくぐると大きな階段があって、どうやら展示は1階と2階にまたがっているみたい。


エントランスをくぐると大きな階段があって…

「ここにはたくさんの展示室が並んでいて、いろんな方向から出入りできるようになっています。1、2階とも、入口から反時計回りに巡ると、大まかに時代を追って観ることができるようになっています。なのですが……」

 あ、わかった! 古い時代から並んでいる順路を、逆にさかのぼろうっていうのでしょう? 『上野に行って2時間で学びなおす西洋絵画史』のときもやりましたよね。現在に近い作品から観ていったほうがわかりやすいし、「なぜこんな進展になったのか」という歴史の転換点が浮き彫りになるという理由で。

「はい。まずは作品を身近に感じられることは大切だと思いますので。ここ本館であれば、2階の第10室、浮世絵からいくのがよいかと。江戸~明治期に興隆した浮世絵ならそもそも庶民の芸術で、いえ、芸術というよりもお楽しみというか慰みというか。とにかく、かしこまったものでは決してなかったので、親しみやすさという意味ではピカイチですしね」

 天井が高く広々とした展示室に入る。壁一面に、浮世絵がずらりと掛かっている。ほぼ一様のサイズで、そんなに大きくはない。

「肉筆画もありますが、基本的に浮世絵といえば版画です。一般の人の購買用に量産されていたわけですから、さほど大きくはなり得ません。摺りものなので、サイズを大判にすると版木を彫るのにとてつもなく手間がかかるようにもなってしまいます。それでおのずと小ぶりの決まったサイズになっていくのですね」


《通俗水滸伝豪傑百八人之一個・小李廣花榮》歌川国芳筆 江戸時代・19世紀 江森早苗氏寄贈 
※展示は7月21日まで。7月23日~8月18日は、喜多川歌麿《橋の上下》など夏の風物詩を扱った浮世絵が並ぶ。

 どの絵も、ずいぶん勇ましい男たちが描かれていますねえ。

「現在の展示は、ひとつのシリーズものです。歌川国芳作、『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』のうち38枚が出品されています。そう、題材はいまも人気の水滸伝の話です。19世紀前半、幕末の作品でして、このころ水滸伝は爆発的にヒットしていたのです」

 水滸伝って、たしか108人の英雄が出てくる話でしたよね。明の時代の冒険活劇だって、学校で習った気がする。一枚につきひとりのキャラクターが描き出されているんですか。

「そうです。この浮世絵では個性的な勇者たちを描き分けてあって、たとえばいまご覧になっているのは《小李廣花榮》。彼は弓の達人として知られているので、弓を射るポーズをとっています。こちらは《活閻羅阮小七》、漁師出身で水軍の頭領になった人物です。いかにも腕っぷしが強そうでしょう」


《通俗水滸伝豪傑百八人之一個・活閻羅阮小七》歌川国芳筆
 江戸時代・19世紀 江森早苗氏寄贈
 ※展示は7月21日まで

 どれもワクワクする感じの絵ばかり。英雄たちの躍動感をうまく捉えているとか何とか、それっぽいことも言えそうだけど、どこかアイドルのブロマイドに近いような気も……。

「それで合っていると思いますよ。浮世絵は江戸の町のあちらこちらで売られていて、流行の歌舞伎役者や、水滸伝などの場合は物語世界の登場人物の姿をファンが買い求め、部屋の柱なんかに貼って楽しんでいたのです。原宿でアイドルのブロマイドを買う行為とまったく同じです。
たしかに浮世絵は、美術の世界において世界的評価が高く、絵画的に見るべきポイントがたくさんあります。西洋絵画とは異なり線遠近法を使わずに画面を構築する手法や、大胆極まりない人物やモノの配置などですね。ただ、その魅力は、そうした分析を超えたところにもありそうです」

 うん、そう思う。ひたすら「かっこいい!」「萌える!」「気分が上がる!」って感じ。単純に、目に訴えかけてくる力が強い気がする。

「まったくそのとおりですね。当時から世界最大級の大都市だった江戸の、成熟した町民文化を背景に生まれてきたのが浮世絵です。その画面には、江戸に生きるふつうの人たちの見たかったものがそのまま落とし込んであります。彼らが何を見たいと欲望していたか、どんなものに心を揺れ動かされていたのか、丸ごと追体験できるのがおもしろい。生々しい“視線の欲望”が、ここにはっきりと摺り出されているのですよ。親しみやすさでいえば浮世絵がピカイチと申し上げたのは、そんな意味も含めてのことです」

 浮世絵には、美術の専門家ではない「ふつうの人」の目を楽しませるしかけが、きっと満載なんだろう。だから目の前に立っているだけで、こんなに気分が浮き立ってくる。

 観ていると、まだまだいろいろ知りたくなる。この絵を描いた浮世絵作家ってどんな人だったんだろう。ずっと昔のものなのに、妙に色が鮮やかなのはなぜ? コンシェルジュに訊きたいことが、とめどなく湧いてくる—。

(写真=名和真紀子)

アート・コンシェルジュのお仕事案内
アート・コンシェルジュが上野の美術館を優しく楽しくご案内するツアー。
たった2時間で西洋絵画史を概観できる特別ツアーが、星海社新書で楽しめます。

上野に行って2時間で学びなおす西洋絵画史 (星海社新書) 上野に行って2時間で学びなおす西洋絵画史 (星海社新書)
山内 宏泰
講談社

ケイクス

この連載について

上野で2時間で学びなおす日本美術史

山内宏泰

気になった企画展などに行ってみるけれど、いまいち作品の魅力を味わいきれていないように思っているあなた。美術史の大まかな流れを知れば、アートはもっと楽しく鑑賞できます。『上野で2時間で学びなおす西洋美術史』(星海社新書)で登場したアート...もっと読む

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touhakumidokor1 トーハクを舞台に展開する「 3年弱前 replyretweetfavorite

touhakumidokor1 トーハクを舞台に展開する「 3年弱前 replyretweetfavorite

fujinejima 順路ではなく、現在に近いところから見ると分かりやすい、か。参考になる。【第1回】 5年以上前 replyretweetfavorite

fujinejima "上野の潜在能力がすごい"って言葉がいいなあ~。"この敷地のなかに日本美術の粋がぎっしり詰まっています"【第1回】|山内宏泰|上野で2時間で学びなおす日本美術史 cakes https://t.co/8H3R4l6YhR 5年以上前 replyretweetfavorite