今度はふたりだけで来たいな

【第32回】ドルフィン・ソングが横浜スタジアムでライブを行う日が来た。取材のため、朝早くからトリコもスタジアムに入るが、突然、二人から「海に行かないか」と誘われる。ライブに間に合うか心配するトリコをよそに、オープンカーを飛ばして海に向かうが、そこでトリコは思わぬ告白を受ける……。

19 WILD WILD SUMMER~海へ行くつもりだった~

 ドルフィン・ソングが横浜スタジアムでライブを行う日が来た。イベントの名前は「1990サマー・ビューティー計画」。三万枚のチケットは即完だったという。

 私も朝早くからスタジアムに入った。『GB』でドルフィン・ソングの別冊付録が付くことになり、そのレポートを書くことになっていた。

 客席が無人のスタジアムで、恋と夢二がリハを行う光景は壮観だった。白昼の強すぎる日差しが心地好く、八月のサングラス越しでもふたりは眩しかった。

「トリコー、僕のギターの音、届いてるぅー?」

 特設ステージからザ・スミスのTシャツを着た夢二が、スタンド席の私に問いかける。私は手で大きな丸を作った。

 次から次へと客席を移動し、様々な場所からステージを眺めた。色んな角度から恋と夢二を見たかった。アリーナの柵にもたれる。今夜、いっぱいのオーディエンスの前で、ドルフィン・ソングはライブを行う。夕闇が待ち遠しかった。

 私はバックステージに回る。本来ならプレスでも立ち入り禁止だが、恋と夢二が特別にパスを出してくれたのだ。いったんリハを終えたふたりがやってくる。その表情はどこか強張っていた。「緊張してる?」と訊くまでもない。

 恋はイスではなく地べたに腰を下ろした。煙草を吸って、スタッフの冗談も耳に入らない様子だ。夢二も空のコップをいつまでも手にしたまま、思いあぐねているのがわかった。居づらくなってそっと席を外そうとした矢先、夢二が声をかけてきた。

「トリコ、ちょっと出かけないか」

「俺も同じこと考えてた」

 夢二の誘いに、恋が乗っかる。私は唖然とする。

「出かけないかって……どこに?」

 夢二はしばらく考え、私のほうを向いてはっきりとした口調で言った。まるで何かの宣言のようだった。

「遠くまで行く。海を見に行く」

 言葉がなかなか出てこない。

「だって、そんな時間ないでしょ」

 壁の時計を見ると、十四時半を指している。開場は十五時から、開演は十七時を予定している。夢二が唇をきりりとさせる。

「大丈夫だよ。俺たちがいなきゃ始まらないんだし」

 恋は立ち上がると、尻を二、三回はたき、「決まりだな」と呟いた。ふたりは顔を見合わせると、イタズラ坊主のような笑みを浮かべた。

 夢二の運転するオープンカーが球場を出る際、早い時間から待っていたファンに見つかってしまった。バカバカしい眼鏡と付け髭で顔バレを防いだつもりだったが、わっと取り囲まれた。助手席の私は素知らぬふりをする。夢二は彼女たちの叫び声などまるっきり気にせず、クラクションを鳴らして突破した。

「ちょろいもんだ」

 国道に出て、真っ直ぐに車を走らせる。目にも止まらぬ素早さだった。

「僕たちばっか奉仕させられてもたまらない。こっちも楽しませてもらうぜ」  夢二の言葉に恋が白い歯を見せる。私もうまく笑いたかったが、それどころではなかった。さっき見た光景が瞼に焼き付いて離れなかったせいだ。  オープンカーを取り囲んだ少女の中に、私がいた。この世界に来て、初めて会った。一瞬だったが、自分を見間違えるはずがない。

 十六歳の私はドルフィン・ソングの追っかけだけを生き甲斐にしていた。この一大イベントに来ないはずがない。ベレー帽とボーダーのシャツで、「彼女」は完全にドルフィン・ソングになりきっていた。いま見ると恥ずかしくて顔から火が出る思いだ。

 あの頃の私は怖いもの知らずだった。というより、ろくに世間を知らなかった。無知から来る自信だけで世の中を泳ごうとしていた。親の歳になって、初めて客観的に見る。これでは手を焼いて仕方がなかっただろうと同情する。

 それでもむかしの自分なのだから、微笑ましく見てあげるべきなのだろうが、私は瞬時にして「彼女」の性根の悪さを看破した。こいつとは仲良くしたくないと思った。しかも「私」は、車ですり抜けていく私に向かってこう言い放ったのだ。

「誰だよこのババア」

 当て付けの言葉が、いつまでも耳の奥に残った。

 カーラジオをつける。Sly & The Family Stoneの「DANCE to the Music」が流れる。恋がリズムを取る。

「ここらへんも次のアルバムに入れたいよな」

 曲はElectric Flagの「FLASH, BAM, POW」に変わった。ロジャー・コーマンプロデュースの映画『白昼の幻想』のサントラだ。悪くない選曲だった。開局したばかりのJWAVEは最高だったと思う。

 車は時速百キロで進んだ。恋は道を知っているのか。世界地図でも広げかねない勢いだった。  日差しが強かった。この時代はまだ紫外線の知識がない。ろくな日焼け対策もせず、真夏の白昼オープンカーを乗り回すなど、二〇一九年だったら一億積まれてもやらない。だけど恋と夢二が一緒なら、世界の果てまでついていきたい。しばらく車を走らせた後、左へカーブを曲がると光る海が見えてきた。私は思った。この瞬間は続くと! いつまでも!  行く橋の名を知らなくても、ちゃんと海に辿り着けた。

 照り付けている太陽がバッチリで、寝かせたパラソルで暑い日差しを避ける。白いポータブルラジオのBGMはもちろん、ベンチャーズ、ビーチボーイズ、ジャン&ディーンも揃えた。カラフルなソーダ水が渇いた喉を過ぎていく。遠くに見える海の家の屋根が、近づく夕暮れの夏を残したまま、眠りを照らしている。クーラーの効いた部屋で仕事ばかりしていたので、やっと夏が来たような気がした。

「ふたりとも、ビーチが似合わないよね」

 夢二はジーンズの裾を捲って、踝を濡らしている。

「泳げないんだ?」

 夢二は小さな声で、足首までなら……と答えた。

「せっかく海に来たのに」

 黙っているような男ではない。

「トリコのビキニ姿が見たいな。さぞ似合うと思うけど」

 恋が唇を曲げる。皮肉屋の面目躍如だ。

「水着持ってきてないし、ダイエットもしてないし。そもそも、海へ行くつもりじゃなかった」

「そういう問題かよ」

 私はふたりに水をかける。汗か飛沫か、夢二の頬に、さらさらした髪が張り付いている。はしゃぐ声に私は夏の終わりを見る。

 恋が自販機まで買い物に行っている間のことだった。隣に座っていた夢二が、手を握ってきた。私は最初、何かの間違いだと思った。たまたま手が重なったのだと思っていた。夢二が海を見つめながら言った。

「今度はふたりだけで来たいな」

—え?」

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この連載について

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ドルフィン・ソングを救え!

樋口毅宏

林真理子さん、燃え殻さんも才能を認めた著者の会心作を限定公開!  2019年、45歳独身で人生に絶望したフリーターのトリコ。睡眠薬で自殺をはかって目覚めたのは、1989年の渋谷だった! トリコに幸せは訪れるのか?  「めちゃくち...もっと読む

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