17 偶然のナイフ・エッジ・カレス
それは思いがけない遭遇だった。私は日本コロムビアのディレクターと、赤坂にある本社ビルで打ち合わせをしていた。先日ライブで観た、アイスランドのインディー・バンド、シュガーキューブスの感想を伝えた。
「ボーカルのアイナーが全然ダメ。さっさと解散したほうがいい」
「そこまで言いますか」
ディレクターはジャパンオンリーのミニアルバムをリリースしたいほど、シュガーキューブスに惚れ込んでいる。リリースされたら、ライナーノーツを私に書かせると言ってくれているのに、真っ向から全否定してしまった。
「あんなの音痴だし、ただ叫んでいるだけじゃないですか」
「そりゃビョルクのほうが歌がうまいし、可愛いし、神秘的だけど」
「ビョークね。彼女はソロになった途端、大ブレイクしますよ」
「えー、こう言っちゃ何だけど、ブスだよ?」
「そこがいいんじゃない!」
四方山話を済ませて、玄関フロアを抜けようとした際に、その男を見つけた。
受付前のソファで、侘しい空気を身に纒い、くたびれたシャツの胸元には、ラーメンのスープでも零したのか、銅色のシミができている。踵を踏み潰した靴を、貧乏ゆすりでせこせこと磨り減らせていた。素通りできず、そろそろと近づいた。男は顔を上げる。私の目に狂いはなかった。
「あの……元ドルフィン・ソングの葉村允彦さんですか」
男は顔を上げて、黄色い歯を見せて頷いた。
「きょうはさ、レコード会社に売り込みに来たんだ」
葉村はブレンドに砂糖を大匙で三杯入れると、音を立てて啜った。コロムビアから歩いて数分のカフェには私たちしかいなかった。葉村は音楽ライターと書かれた私の名刺を矯めつ眇めつ眺めていた。
「自分でバンドを作ってね。僕がボーカルをやっているんだ。ナイフ・エッジ・カレスって言ってね。今回も僕がバンドの名付け親」
生島Pに改名を勧められて、ドルフィン・ソングと命名したのは、アマチュア時代から恋と夢二とバンドを組み、パーカッションを担当していた葉村だというのは、知る人ぞ知る話だ。
年齢がふたつ上の葉村は、結成当初こそリーダーとして主導権を握っていたが、ほどなくして音楽性の違いから——と言うより、音楽の知識とセンスの、圧倒的なレベルの差からだろう——葉村を含む、ベーシストとドラマーの三人が脱退した。
「でもよく僕だってわかったね。自分で思っていたより顔が売れていたわけだ」
葉村の自尊心を擽るために、作り笑いで応えた。
「ドルフィン・ソングって、葉村さんのバンドだったわけですから」
葉村は易々と私の誘い水に乗った。それはもう、滑稽なほどに。
「まあねえ。それは否定できないよね。ジャケットや歌詞にセシル・ビートンを入れるとか、音はネオアコあたりからまんま持ってくるとか、そもそものバンド・コンセプトが全部僕だよ。それをさ、あのふたりにはまんまとヤラれたな」
葉村の荒れた唇の端が痛々しかった。足を組み、胸を仰け反らせて、精いっぱいの虚勢を張っても、この男が脇役であることは隠しようがなかった。
「でも恋と夢二って、天才ですよね」
脊髄反射で擁護していた。ふたりに義理立てなんかしなくていいのに。
葉村は気に障ったようで、目を吊り上げて反論した。
「そうだね、恋と夢二は確かに才能があるかもしれない。ルパン三世真っ青の盗癖とかね。オマージュなんて便利な言葉を使ってさ、よくもインタビューで偉そうなことをヌカせるよな。盗人猛々しいとは奴らのことだ。ミュージシャン以前に、人として何かが欠けているよ。そう思わない?」
私は首を縦にも横にも振らない。
しかし葉村は夢二の陰険で、狡猾な、人を人とも思わぬ言動を次々と挙げていった。待ち合わせをすっぽかすことなど朝飯前。恋と一緒になって、ディレクターやアシスタントをひとりひとり味方に付けていき、他のメンバーに対して容赦なく演奏をやり直させた。声を荒らげ、詰り、失笑を交え、ねちねちと、言葉による折檻で人をとことん追いつめていくその姿は、まるでスタジオの独裁者だったという。
いちばん驚いたのは、夢二が指名した他のプロミュージシャンでレコーディングを録り直したというエピソードだった。クレジットこそされていないが、アルバムに入っている演奏は、メンバーによるものではないらしい。ベーシストとドラマーは精神科への通院を余儀なくされ、ドルフィン・ソングを追放された後、郷里の実家に帰ったそうだ。葉村はそのことも夢二のせいだと決めつけていた。私は黙って聞いていた。
葉村はひととおり言い終えると、コーヒーのお代わりを注文して、煙草に火をつけ、貧乏ゆすりを再開した。灰皿は短い吸殻で溢れた。
「あのさ、さっきから見てると……夢二のことが好きでしょ?」
葉村は、人の秘密を探り当てたような顔で、ニヤーッと、気味の悪い笑みを浮かべた。
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