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関東大震災を警告した今村明恒
「地震研究と防災の一体化」を体現した「神様」のような研究者が、実在しました。明治末から大正にかけて震災予防調査会の活動の中心人物だった大森房吉と同じ時期、東京帝大地震学教室に所属していた今村明恒です。
今村は大森より二つ年下で、大森が地震学教室の助手になったころ大学に入学しました。濃尾地震では調査隊の先遣役として、発生直後に交通の寸断を乗り越えて現地入りしますが、到着したとたんに帰京を命じられ、本格調査の役目は大森らが担いました。
その後も大森が主任教授に昇格する一方、今村は長く助教授の座に甘んじます。しかし、今村は過去の地震記録を詳細に分析し、警告しました。
「過去の江戸に起こった地震は平均百年に一回の割合で発生しており、最後の安政江戸地震からすでに50年が過ぎていることを考えると、今後50年以内に大地震が起きることは必至と覚悟すべきである」と。
安政江戸地震など、江戸で起きた地震は大火災を引き起こしてきました。今村は、当時の東京市では火災を拡大する要因が増加している上に、地震が来れば水道管が破壊されて消火能力も失われると指摘。東京の市街地での甚大な火災被害を予見し、防火対策の必要性を説く論文などを発表していました。
ところが、大森との確執で、今村の論考を紹介した新聞記事が訂正させられたり、大地震の周期説を唱えたコメントを否定されたりします。「ほら吹き今村」とまで中傷される不遇な時期を過ごす中で、1923年の関東大震災がやって来ます。
今村の警告は現実のものとなり、世間の評価は逆転。今村は関東大震災を予知した「地震の神様」とたたえられるようになります。大森とも和解し、この年に亡くなった大森の後を継いで地震学教室の教授に昇進しました。
その後も今村は過去の南海トラフでの地震の繰り返しを分析し、次に心配なのは南海トラフ地震だと考えます。そして私財を投じ、1928年に南海地動研究所を和歌山県に設立しました。ところが、太平洋戦争中は軍に施設を接収され、観測は1943年で途絶えてしまいます。まさにその直後の1944年12月に東南海地震が発生。今村は「次は南海地震だ」と考え、被災地域の新聞社や自治体にその危険性を手紙で訴え続けました。
しかし、相手にされないまま2年後に南海地震が起こり、災害を減らせなかったことを今村は深く悔やんだようです。この地震の1年後の1948年、今村は満77歳で命を閉じました。
地震学を専門としながら、むしろ防災的視点で防災教育や耐震化、不燃化などについて精力的な活動をした今村。先の「稲むらの火」を教科書に掲載することにも貢献したと言われています。今村が残した「君子未然に防ぐ」ことの大切さを肝に銘じ、次なる南海トラフ地震への備えを進めなくてなりません。
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