この船には、もう一つの使命がある」波濤の果て ー 6

「俺はまだ終わっちゃいねえ!」 江戸時代初期、江戸の町に食糧危機が迫っていた。必要なのは物流革命の切り札「千石船」━━。 息子も居場所も仕事の誇りもすべてを失い、老いにどん底まで追い詰められた男が逆襲する! 『男たちの船出』は、イノベーションの生みだす様々なジレンマを、船大工たちの視点で描いた長編時代小説です。 (火・木 10時更新)

 十二月の風が頰に冷たい。

「頭—」と言いつつ磯平が進み出ると、嘉右衛門に一升徳利を差し出した。

「弥八郎、まずはお前から飲め」

 嘉右衛門が墓石に酒を注ぐ。乾いていた墓石が一瞬にして黒々と濡れ、弥八郎が喜んでいるかのように見える。続いて嘉右衛門が一口飲むと、徳利を清九郎に渡した。

 勝海丸を造った男たちが、次々と酒を回し飲みする。

 それが終わると、嘉右衛門が皆に向かって言った。

「行くぞ!」

「おう!」

 男たちが列を成し、渡海弁天の石段を下りていく。その視線の先には、勝海丸の巨大な船体が横たわっている。波は高いが、勝海丸はどっしりと腰を下ろして微動だにしない。

 —風はうしとら(北東)か。

 すでに風は北方の寒気を運んできている。

 嘉右衛門たちが石段を下ると、女たちが待っていた。

 その中から梅が進み出た。

「おとっつぁん、やっぱり行くのかい」

「ああ、わいが行かずに誰が行く」

「だけど、おとっつぁんは—」

「もう五十だと言いたいのか」

 半ば泣き顔で梅がうなずく。

「わいは船造りとして生きてきた。海で死ねれば本望だ」

「分かったよ。もう何も言わない。存分に戦ってきなよ」

「ああ。だがわいは死んでも、熊一は生きてお前の許に帰す」

「当たり前じゃないか」

 嘉右衛門の背後に続く熊一に、「あんた、死なないでおくれよ」と梅が声を掛ける。だが熊一は、「必ず帰る。だからお前は黙っていろ!」と怒鳴りつけた。

 —立派になったな。

 ついこの前まで小僧にすぎなかった熊一は、ここ一年で立派な男になっていた。

 —若いもんは成長する。年老いたもんは道を譲っていかねばならねえ。

 だが世の中には、上は武家から下は町人に至るまで、それが分からず、いつまでも小さな権力を握っていたいやからがほとんどだ。牛島の作事場があのままだったら、嘉右衛門もそうしたうちの一人だったかもしれない。しかし突然襲ってきた人生の荒波に翻弄されているうちに、後進に道を譲ることの大切さが分かったのだ。

 —わいは、この仕事を最後に道具を置く。

 そうした意味でも、嘉右衛門は負けるわけにはいかなかった。

 その時、ひよりが「お頭、これを持っていって下さい」と言いつつ、何かを差し出してきた。

 それは小さな匂い袋だった。

「弥八郎さんと初めて会った時、この匂い袋に入った二分金をいただいたんです」

「そうだったのか。でも、そんな大切なもんを、なぜわいに寄越すんだ」

「これは弥八郎さんの唯一の遺品です。これをお頭が持っていれば、仏になった弥八郎さんのご加護があると思うんです」

「でも、わいも仏になっちまうかもしれねえんだぞ。そしたら、こいつも海の藻屑と消える」

 ひよりが首を左右に振る。

「決してそんなことはありません」

 ひよりの確信の籠った言葉に勇気づけられた嘉右衛門は、「帰ったら返す」と言って、匂い袋を懐に収めた。

「どうかご無事に—」

 ひよりが嗚咽を堪える。

「ああ、必ず帰る」

 嘉右衛門が力強くうなずく。

 桟橋には、安乗丸の時と同じ船頭をはじめとした船子たちが待っていた。

「船頭さん、此度は万全を期すべく、乗り組み大工を四人とさせていただきます。よろしゅう、おたの申します」

 そう言って嘉右衛門が頭を下げると、船頭も「こちらこそ、いざという時に頼りにしています」と言って一礼した。

 双方の挨拶が終わると、早速、船頭が切り出した。

「嘉右衛門さん、この船には、もう一つの使命がある」

「米のことだな」

「そうだ。新潟で千石船に満載できる米俵を積み込み、ここまで運んでこないと、佐渡の民は飢え死にする」

 ここ数年、ただでさえ農地の少ない佐渡では不作が続き、内陸部では老人や幼児が栄養失調から病を得て死んでいた。まだ餓死者こそ出ていないものの、新潟から穀物類を運び込まない限り、最悪の事態を招きかねない。

 —わいらには、重大な使命が託されている。

 この深刻な事態に際し、七兵衛は新潟港に集まった千石の米を買い上げ、勝海丸に載せて佐渡に運ばせるつもりでいた。そのため七兵衛は、勝海丸が来るのを新潟で待っている。

 —つまり帰路は、荷打ちできないということか。

 安乗丸同様、勝海丸も土俵を積んで出帆し、新潟の沖で土俵を捨て、新潟で米俵を積んで帰途に就く予定でいる。むろん追い風・追い潮となる往路よりも、向かい風・向かい潮となる復路の方が操船は難しく、多くの困難が予想された。

 気づくと、桟橋まで来ていた梅と磯平の妻が、それぞれの夫の袖に取りすがっていた。磯平の妻は、「お頭が、あれほど『お前は行かなくていい』と言ったのに、なんであんたは行くんだい」と言って泣いている。初めは突き放そうとした磯平だったが、女房の肩に手を掛けると、「心配は要らねえ。必ず戻る」と言って慰めている。

 少し離れた場所では、泣き崩れる梅の背を熊一がさすりながら何か言っている。

 —夫婦か。

 嘉右衛門は、ずっと前に死んだ妻のあさのことを思い出していた。あさは無口だが気立てのよい女で、嘉右衛門を陰から支えてくれた。生前、嘉右衛門は感謝の言葉一つ言えなかったが、あさは嘉右衛門の気持ちを分かっていてくれた。

 もはや死から逃れ難いと知った時、あさは嘉右衛門の手を握り、「弥八郎と梅のことを、よろしく頼みます」と言い残した。

 —だがわいは、お前の大事な弥八郎を死なせちまった。

 嘉右衛門は心中、あさに詫びた。

 —すまなかったな。

「嘉右衛門さん、先に乗っていよう」

 清九郎が嘉右衛門を促す。清九郎も嘉右衛門同様、女房を早くに亡くしているので、きっと女房のことを思い出したに違いない。

「清九郎さん、孫四郎はどこにいる」

「奴は岬の突端で見送るとさ」

「そう言いながら、船の中に隠れてるんじゃねえだろうな」

 安乗丸の時の顚末は、孫四郎本人が皆に話している。

「此度は心配要らねえ。孫四郎には佐渡や塩飽の若いもんが一緒だ。塩飽の甚六なんかは『前回はやられたが、此度はわいが放さない』と言って、孫四郎の袖を摑んでいた」

「ははは、それなら安心だ」

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

男たちの船出

伊東 潤
光文社
2018-10-30

コルク

この連載について

初回を読む
男たちの船出

伊東潤

「俺はまだ終わっちゃいねえ!」 江戸時代初期、江戸の町に食糧危機が迫っていた。必要なのは物流革命の切り札「船」 息子も居場所も仕事の誇りもすべてを失い、老いにどん底まで追い詰められた男が逆襲する! 『男たちの船出』は、イノベーシ...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません