しょせん人は、海には勝てねえんだ」波濤の果て ー1

「俺はまだ終わっちゃいねえ!」 江戸時代初期、江戸の町に食糧危機が迫っていた。必要なのは物流革命の切り札「千石船」━━。 息子も居場所も仕事の誇りもすべてを失い、老いにどん底まで追い詰められた男が逆襲する! 『男たちの船出』は、イノベーションの生みだす様々なジレンマを、船大工たちの視点で描いた長編時代小説です。 (火・木 10時更新)

 —いよいよ、生まれ故郷ともおさらばなんだな。

 これで牛島を後にすれば、嘉右衛門の年齢や立場からすると、二度と再び戻ることはないだろう。妻や弟の墓参りには来たいが、正次の好意を思えば、そんなことは言い出せない。そのため嘉右衛門は、家財を売り払って作った金の大半をだいに寄付し、えいたい供養を頼んできた。

 延宝五年(一六七七)三月、嘉右衛門が船着場で丸亀行きの便船を待っていると、熊一と梅が荷物を抱えてやってきた。ほっとすると同時に、自分という重荷を背負わせてしまったという複雑な気持ちになる。

「やはり来たのか」

「昨夜遅くまで二人で考えた末、正次さんのお世話になることにしました」

 熊一が笑みを浮かべて言う。

「わいに気兼ねしたんじゃねえだろうな」

 梅が首を左右に振る。

「おとっつぁん、あたいたちだって、おとっつぁんのことが心配だよ。でもね、あたいたちにも暮らしがある。だから気兼ねなんかしないよ。熊一さんは競争の激しい大坂で船大工になるより、丸亀で商人になる道を選んだんだ。その方が人生が開けると、あたいも思ったんだよ」

 熊一が付け加える。

「船大工の道を捨てるのは残念です。しかし出直すなら、きっぱりと前の仕事は忘れた方がよいと思ったんです」

「そうか。お前らは、それでいいんだな」

「はい」と二人が声をそろえる。

 —よくぞ決意した。

 だが嘉右衛門は、娘夫婦が嘉右衛門のことを思って丸亀行きを決めたのを知っていた。

「熊一、母親や妹たちはどうする」

「母は畑仕事をして何とか食べていけるんで、ここを離れたくないと言うんです。ですから落ち着いたら、妹たちだけでも引き取ります」

「そうか」

 熊一の母が市蔵の墓から離れ難いのはよく分かる。

「わいのせいで、こんなことになっちまってすまなかったな」

「おとっつぁん、もう、そのことは言いっこなしだよ」

「そうですよ。これも運命です。きっと丸亀で運が開けてくると思います」

「きっとそうだろう。でもわいは、お前らの厄介にだけはならねえからな」

 梅が首を左右に振る。

「それはその時に考えよう。今は前だけ向いて歩いていこうよ」

「ああ、そうだな」

 嘉右衛門は島に向かって一礼すると、二人もそれに倣った。

「では、行くか」

 桟橋に向かって歩き出した嘉右衛門の左右に、二人が寄り添う。その思いやりが、嘉右衛門にはうれしかった。

「こんな役立たずでも親と思ってくれるのか」

「何を言うんだい。あたいにとって、おとっつぁんはたった一人の親なんだよ」

 嘉右衛門の瞳から一筋の涙が流れた。それを覚られないよう、嘉右衛門は「暑くなってきたな」と言いながら、額から頰に掛けて袖で拭った。

「あっ、便船が来ました」

 熊一の声に応じて顔を上げると、涙でかすんだ目に便船が見えてきた。

 —いよいよ出発か。

 船が桟橋に着くと、いつもより多くの人が下りてきた。

 その中心にいる人物を見た時、嘉右衛門は啞然とした。

「熊一、梅、あれは河村屋さんじゃないか」

「あっ、そうです。河村屋さんです」

「もう、こんな島に用などないはずなのに。どうしたんだろうね」

 やがて七兵衛も、桟橋の出入口に佇む三人に気づいた。だがその顔には、いつものような人懐っこい笑みは広がらない。

 —何かよからぬ話か。

 胸騒ぎがする。

 七兵衛が重い足取りで近づいてきた。その顔色を見ただけで、嘉右衛門には、よほど深刻な話だと察しがついた。

「嘉右衛門さん、心して聞いてくれよ」

「へっ、へい」

「弥八郎が死んだ」

 その言葉を聞いた時、嘉右衛門は既視感に囚われていた。

 —かつても同じことがあったじゃねえか。

「ど、どうして!」

 言葉もなく佇む嘉右衛門に代わり、梅が問う。

「船が沈んだんだ」

 既視感はより強くなった。

 —わいはこの後、膝をつく。

 嘉右衛門の体はその通りにしたが、なぜか心の中を風が通り抜けていくだけで、驚きも悲しみもわき上がってこない。

「詳しくお聞かせ下さい」

 熊一が絞り出すような声で問う。

「どこかに座って話をしよう。それよりも一家そろって、これからどこへ行くんだ」

「そのことは後でお話しします」

 熊一が落ち着いた口調で言う。

 気づくと七兵衛の手代らが嘉右衛門の腕を取り、立たせてくれた。

 七兵衛は従者たちを外で待たせ、四人は浜の近くに一軒だけある宿屋に入っていった。

 梅のすすり泣きが聞こえる中、七兵衛が顚末を語った。

「ということだ。安乗丸が水船になり、瞬く間に沈んでいくのが、はっきりと伝馬船から見えたというんだ。つまり弥八郎は船と運命を共にしたんだ」

 梅のすすり泣きが高まる。

「弥八郎以外の船子たちを乗せた伝馬船は、数日間漂流した末、幸いにも敦賀から来た廻船に拾われ、新潟へと連れていってもらえた」

 七兵衛が淡々と語る。

 その後、佐渡の宿根木にも連絡が入り、「帰りが遅い」と気をもんでいた七兵衛や清九郎にも、「安乗丸遭難沈没」の一報がもたらされたという。

「そういう次第だ。弥八郎は最後まで皆のことを思い、船大工としてのせきを全うした」

 押し殺したような梅の嗚咽が漏れる中、七兵衛の話が終わった。

 熊一が問う。

「何が—、何がいけなかったんですか」

「わいも、それが気になった。同乗していた船大工によると—」

 七兵衛は、佐渡島に戻った孫四郎から聞いた顚末を話してくれた。

「ということは、船が重すぎたんですか」

「はっきりとは分からない。だが、どうやらそうらしい。塩飽から来ていた船大工の一人が、『船の重さに不安を感じながらも、行かせちまったわいがいけなかった』と言って、腹にのみを突き立てやがった」

「それは誰ですか!」

「確か磯平という名だったな」

「それで磯平さんは—」

「一命は取り留めた」

「よかった」

 熊一が安堵のため息をつく。

「ところで、お前さんたちはどこへ行くんだい」

 熊一が事情を語った。

「なんてこった。それじゃ、ふんだりけったりじゃねえか!」

 七兵衛が怒りをあらわにする。

「嘉右衛門さん、こんなことになっちまって、お詫びのしようもない」

 七兵衛はあらたまると、その場に正座し、嘉右衛門に頭を下げた。

 それを熊一が押しとどめる。

「河村屋さん、よして下さいよ。弥八郎さんは自分の夢を追ったんだ。悔いなどないはずです」

「そう言ってくれるか」

 七兵衛が声を震わせる。

「わいはこんな途方もないことに、嘉右衛門さんの大事な一人息子を引きずり込んじまった。それを詫びねばならないと思い、ここまで来た。千石船を造るなんざ、どだい無理な話だったんだ。いや、造ることはできても、佐渡の海に挑んだのが間違いだった。わいは天をも恐れぬことをしようとした。だがその天罰は、わいではなく弥八郎に下っちまった」

 七兵衛が涙声で言う。

「しょせん人は、海には勝てねえんだ」

 —海には勝てねえのか。

 その言葉が嘉右衛門の脳裏にこびりつく。

 熊一が身を起こそうとしても、七兵衛は土下座したまま動かない。

「嘉右衛門さん、黙っていちゃ、あんたの気持ちが分からねえ。何か言ってくれよ」

 七兵衛が涙声で訴える。

 —弥八郎、口惜しかったな。

 何も考えられなかった嘉右衛門の脳裏に、丸尾屋の厚司を着た弥八郎の姿が浮かんだ。

 —弥八郎、わいに仇を取ってほしいか。

 —当たり前だ。佐渡の海に負けたままじゃ塩飽の大工の名がすたる。だが、わいはもう生きてねえ。わいに成り代わり、生きているもんたちが塩飽衆の意地を見せてほしいんだ。

 —それが一番の供養なんだな。

 —ああ、そうだ。おとっつぁん、あの海に勝ってくれよ。

 —だが、わいはもう年だ。波濤渦巻く佐渡の海に勝てるだろうか。

 —おとっつぁん、わいらの力はそんなもんなのかい。塩飽の大工は、どんな海だって渡れる船を造れるんじゃなかったのかい。

 —当たり前だ。それが塩飽の大工ってもんだ。

 —その意気だ。おとっつぁんなら、きっとあの海に勝てる。

 —分かった。お前の弔い合戦をやってやる。

「河村屋さん」

 驚いたように七兵衛が顔を上げる。

「河村屋さんには何の罪もねえ。弥八郎は海に挑んで負けただけだ。ただ—」

 嘉右衛門は一拍置くと言った。

「弥八郎に代わって、わいにやらせてくれませんか」

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男たちの船出

伊東 潤
光文社
2018-10-30

コルク

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伊東潤

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