皆の生命には替えられねえ」海に挑む時ー13

「俺はまだ終わっちゃいねえ!」 江戸時代初期、江戸の町に食糧危機が迫っていた。必要なのは物流革命の切り札「千石船」━━。 息子も居場所も仕事の誇りもすべてを失い、老いにどん底まで追い詰められた男が逆襲する! 『男たちの船出』は、イノベーションの生みだす様々なジレンマを、船大工たちの視点で描いた長編時代小説です。 (火・木 10時更新)

 弥八郎と孫四郎の二人が船尾に着くと、二人の船子が、ろくに掛けられた尻掛けを緩めようとしていた。

「何をやっている!」

 船子の一人を羽交い絞めにして抑えると、もう一人が喚いた。

「これを見ろ!」

「あっ!」

 確かに、何よりも頑丈なはずの尻掛けにほつれができ、明らかに切れ掛かっている。

 尻掛けは、舵を出したり入れたりする際に使われる綱具の一つで、船で使われる綱具の中では最もきようじんなはずだ。しかし「地獄の窯」の力は、その強度さえも上回っていたのだ。

 もしも尻掛けが外れたり切れたりすれば、舵は海中に引きずり込まれ、舵を支える構造物の外艫も吹き飛んで浸水が始まる。市蔵の遭難例を挙げるまでもなく、海難事故で最も多いのが、舵か外艫にかかわる事故なのだ。

 尻掛けは轆轤で巻かれているため、切れ掛かった部分を補強するには、そこまで尻掛けを緩めねばならない。つまり舵を海中に出すことになる。

「お前らは、船頭を呼んでこい」

 船子二人は船頭の許に向かった。

「孫四郎、轆轤を緩めよう」

「しかし、この位置まで轆轤を緩めるということは、舵の半分以上を出すことになります。そんなことをしたら羽板が吹っ飛んじまう」

「分かっている。だが、このままだと尻掛けは切れる」

「舵を出さずに、轆轤を緩めることはできませんか」

「それをやるには、どこかに引っ掛けて巻く必要がある」

 二人は周囲を見回したが、都合のいい突起物はない。

「仕方ない。やりましょう」

 そこに船頭が飛んできた。

「どした!」

 船頭も、切れ掛かった尻掛けを見て蒼白になった。

「なんてこった!」

「船頭さん、これからこの部分を補強します。下手をすると舵の羽板が吹っ飛びます。そうなる前に伝馬を下ろす支度をしておいて下さい」

「分かった」と言って船頭が戻っていく。これにより船尾にいるのは、弥八郎と孫四郎、そして先ほどの舵担当の船子二人となった。

 —なぜこんなことになったんだ。

 轆轤や尻掛けは購入品であり、購入品である限り、強度には基準がある。つまり、そうした既製品を使ったことが間違いだったのだ。

 だが今は、そんなことを言っている場合ではない。

「弥八郎さん、伝馬の支度をするってことは、まさかこの船を捨てるのか!」

 孫四郎が泣きそうな顔をする。

「皆の生命いのちには替えられねえ」

 そうしている間も、尻掛けのほつれは、ひどくなってきているように思える。

「よし、回すぞ。ゆっくりだ」

 轆轤の留金から尻掛けの端を外すと、凄まじい力が掛かってきた。それを船子二人が踏ん張り、切れ掛かった部分を何とか緩めた。

「よし、まとめるぞ」

「は、はい」

 二人は轆轤側の尻掛けの端を留金に掛けると、続いて外艫側の尻掛けを引き、切れ掛かった箇所を二重にしてぐるぐると巻いた。

「よし、補強材だ」

 道具箱から強度のある細縄を取り出す。切れ掛かった部分を細縄で結ぶのだ。だが二人の船子が音を上げ始めた。

「もう無理だ」

「もう少しだ。がんばれ!」

 ようやく、ほつれ掛かった部分に細縄を巻くことができた。

 その時だった。突然、衝撃が襲い、留金が吹っ飛んだ。

 尻掛けを引いていた船子二人が放り出される。

「うわっ!」

 その衝撃で羽板の一部が吹っ飛んだらしい。轆轤が凄い速度で回り始めた。

 —しまった!

 弥八郎は、とっさに尻掛けを摑んで、外艫の端板に足を掛けた。これにより舵は何とか外艫にとどまった。だが次の瞬間、物凄い力が掛かってきた。

「たいへんだ!」

 船子二人が走り去る。

「待て!」

 その背に呼び掛けたが、二人は瞬く間に姿を消した。

 残っているのは孫四郎だけになった。

「弥八郎さん!」

「舵はまだ残っているか!」

「はい。吹っ飛んだのはいそずりだけのようです」

 外艫をのぞき込みながら、孫四郎が言う。

 磯摺とは、三枚の板から成る舵の羽板の最下部のことだ。

「わいがこの手を放したら、舵をすべて失う。外艫も持っていかれ、船尾から水が入ってくる。そうなれば船全体が傾き、伝馬が下ろせなくなる」

「何か手はないのですか!」

「ああ、もう何も思いつかない」

「じゃ、どうすればいいんです!」

「孫四郎、わいの目を見ろ!」

 孫四郎が息をのむように、弥八郎をのぞき込む。

「すぐ上に行き、伝馬に乗るんだ。あの船子たちは、船頭に伝馬を下ろすよう、もう伝えているはずだ。いつまでもここにいたら置いていかれるぞ」

「じゃ、弥八郎さんは—」

「この手を放せば、船が急速に傾き、下ろし掛かっているはずの伝馬が覆る。そしたらみんなお陀仏だ」

「それじゃ、まさか—」

「わいはここで死ぬ」

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男たちの船出

伊東 潤
光文社
2018-10-30

コルク

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伊東潤

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