弥八郎と孫四郎の二人が船尾に着くと、二人の船子が、轆轤に掛けられた尻掛けを緩めようとしていた。
「何をやっている!」
船子の一人を羽交い絞めにして抑えると、もう一人が喚いた。
「これを見ろ!」
「あっ!」
確かに、何よりも頑丈なはずの尻掛けにほつれができ、明らかに切れ掛かっている。
尻掛けは、舵を出したり入れたりする際に使われる綱具の一つで、船で使われる綱具の中では最も強靭なはずだ。しかし「地獄の窯」の力は、その強度さえも上回っていたのだ。
もしも尻掛けが外れたり切れたりすれば、舵は海中に引きずり込まれ、舵を支える構造物の外艫も吹き飛んで浸水が始まる。市蔵の遭難例を挙げるまでもなく、海難事故で最も多いのが、舵か外艫にかかわる事故なのだ。
尻掛けは轆轤で巻かれているため、切れ掛かった部分を補強するには、そこまで尻掛けを緩めねばならない。つまり舵を海中に出すことになる。
「お前らは、船頭を呼んでこい」
船子二人は船頭の許に向かった。
「孫四郎、轆轤を緩めよう」
「しかし、この位置まで轆轤を緩めるということは、舵の半分以上を出すことになります。そんなことをしたら羽板が吹っ飛んじまう」
「分かっている。だが、このままだと尻掛けは切れる」
「舵を出さずに、轆轤を緩めることはできませんか」
「それをやるには、どこかに引っ掛けて巻く必要がある」
二人は周囲を見回したが、都合のいい突起物はない。
「仕方ない。やりましょう」
そこに船頭が飛んできた。
「どした!」
船頭も、切れ掛かった尻掛けを見て蒼白になった。
「なんてこった!」
「船頭さん、これからこの部分を補強します。下手をすると舵の羽板が吹っ飛びます。そうなる前に伝馬を下ろす支度をしておいて下さい」
「分かった」と言って船頭が戻っていく。これにより船尾にいるのは、弥八郎と孫四郎、そして先ほどの舵担当の船子二人となった。
——なぜこんなことになったんだ。
轆轤や尻掛けは購入品であり、購入品である限り、強度には基準がある。つまり、そうした既製品を使ったことが間違いだったのだ。
だが今は、そんなことを言っている場合ではない。
「弥八郎さん、伝馬の支度をするってことは、まさかこの船を捨てるのか!」
孫四郎が泣きそうな顔をする。
「皆の生命には替えられねえ」
そうしている間も、尻掛けのほつれは、ひどくなってきているように思える。
「よし、回すぞ。ゆっくりだ」
轆轤の留金から尻掛けの端を外すと、凄まじい力が掛かってきた。それを船子二人が踏ん張り、切れ掛かった部分を何とか緩めた。
「よし、まとめるぞ」
「は、はい」
二人は轆轤側の尻掛けの端を留金に掛けると、続いて外艫側の尻掛けを引き、切れ掛かった箇所を二重にしてぐるぐると巻いた。
「よし、補強材だ」
道具箱から強度のある細縄を取り出す。切れ掛かった部分を細縄で結ぶのだ。だが二人の船子が音を上げ始めた。
「もう無理だ」
「もう少しだ。がんばれ!」
ようやく、ほつれ掛かった部分に細縄を巻くことができた。
その時だった。突然、衝撃が襲い、留金が吹っ飛んだ。
尻掛けを引いていた船子二人が放り出される。
「うわっ!」
その衝撃で羽板の一部が吹っ飛んだらしい。轆轤が凄い速度で回り始めた。
——しまった!
弥八郎は、とっさに尻掛けを摑んで、外艫の端板に足を掛けた。これにより舵は何とか外艫にとどまった。だが次の瞬間、物凄い力が掛かってきた。
「たいへんだ!」
船子二人が走り去る。
「待て!」
その背に呼び掛けたが、二人は瞬く間に姿を消した。
残っているのは孫四郎だけになった。
「弥八郎さん!」
「舵はまだ残っているか!」
「はい。吹っ飛んだのは磯摺だけのようです」
外艫をのぞき込みながら、孫四郎が言う。
磯摺とは、三枚の板から成る舵の羽板の最下部のことだ。
「わいがこの手を放したら、舵をすべて失う。外艫も持っていかれ、船尾から水が入ってくる。そうなれば船全体が傾き、伝馬が下ろせなくなる」
「何か手はないのですか!」
「ああ、もう何も思いつかない」
「じゃ、どうすればいいんです!」
「孫四郎、わいの目を見ろ!」
孫四郎が息をのむように、弥八郎をのぞき込む。
「すぐ上に行き、伝馬に乗るんだ。あの船子たちは、船頭に伝馬を下ろすよう、もう伝えているはずだ。いつまでもここにいたら置いていかれるぞ」
「じゃ、弥八郎さんは——」
「この手を放せば、船が急速に傾き、下ろし掛かっているはずの伝馬が覆る。そしたらみんなお陀仏だ」
「それじゃ、まさか——」
「わいはここで死ぬ」
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