佐渡海峡では強風と巨大なうねりに翻弄されたが、安乗丸は無事に佐渡海峡を乗り切り、新潟に入港した。
新潟港では、これまで見たことのないような巨船に皆が瞠目し、港のそこかしこに人が集まり、指を差しては何か言っているのが見えた。
安乗丸を沖に停泊させ、瀬取船に乗って上陸した弥八郎らは、七兵衛の紹介状を携えて新潟の豪商たちの間を回り、千石船の見学に誘った。
翌日、大勢の商人たちが集まり、弥八郎の案内で船内を見て回った。すでに土俵の中身は海に捨ててきたので空船となっていたため、その積載量を実見した商人たちは一様に驚きを隠せなかった。
弥八郎は得意絶頂だった。さして船の構造など分からない商人たちに対しても、懇切丁寧に構造を説明したので、商人たちは喜び、その日の夜は宴席を設けてくれた。
指定された店に行くと、弥八郎の座は床の間を背にした上座に用意されていた。そこで新潟芸妓の華やかな舞を見ながら、大商人たちの注ぐ酒を受けた。
——昨日まで一介の大工にすぎなかったわいが、今は大分限のように扱われている。
いかに七兵衛の紹介状があるとはいえ、新潟の商人たちから下にも置かない歓待を受け、弥八郎は得意の絶頂にあった。
——これが大工冥利というものか。
ふだんは地道な仕事に明け暮れる大工だが、商人たちの利益に直結する新たなものを生み出せば、これほど商人たちからありがたがられるのだ。
——河村屋さんは、わいに大工冥利を教えようとしたんだな。
何事も地道に努力すれば報われるということを、弥八郎は胸に刻んだ。
翌日、弥八郎は米穀などを買い入れ、船を再び満載状態にした。その間、孫四郎は船子たちと共に不具合箇所がないかどうか見て回っていた。
とくに問題はないという報告を受けた弥八郎は、念には念を入れるため、水漏れしそうな箇所に縫釘の追加や檜皮打ちを行って補強した。
檜皮打ちとは、檜の樹脂を叩いて縄状にし、板の接ぎ目に打ち込んで水漏れを防ぐ補強作業のことだ。ただし、めり込ませるだけでは外れてしまうので、その上からも縫釘を打ち込んでおく。
こうした作業を経て四日目、いよいよ佐渡島に戻ることになった。ところが、この頃から天候が怪しくなり、海も荒れてきた。
それでも新潟に停泊している商船は、「これからもっと荒れる」と言いつつ急いで出帆していく。もちろん小型船は地乗り(沿岸航行)なので、いざとなれば小さな港に入って風波を防げる。だが安乗丸は、佐渡海峡を沖乗り(陸岸が見えない航行)して佐渡まで帰るので、慎重には慎重を期さねばならない。
沖乗りの場合、磁石と船頭の経験と勘に基づいて帆走することになるが、大洋を行くわけではないので方角を見失うことはない。だが波浪に翻弄されて方角を見失い、また磁石が壊れるなどすれば漂流の危険もある。
それゆえ弥八郎と船頭たちは、天候の情報を集められるだけ集めた。それらを総合すると、このまま待っていても、当分、海が穏やかになることはないだろうという結論になった。
さらに弥八郎には、頭の痛いことがあった。滞在が長引けば、二十人ほどいる船子たちの日当や滞在費がばかにならないのだ。
こうしたことから、弥八郎は五日目の朝、出帆を決意した。
——随分と荒吹いてきたな。
往路よりも荒れる海面に、弥八郎は心配になってきた。
海面だけでなく風向きの定まらない風が激しく吹き、帆走は困難になってきている。それでも親仁(帆頭)の指示に従い、船子たちは手縄を使って帆の角度を変え、また両方綱を使って帆の膨らみを調整し、何とか佐渡島のある南西に進もうとしていた。
「どうだい」と船頭に問うと、「今のところ心配ない」という返事が返ってきた。
しかし陸岸が見えなくなると、海面のうねりがさらに大きくなり、山の頂から谷底に落とされるようになった。
——これが佐渡の海か。
突如として海面が盛り上がり、それが巨大な山と化し、互いに波頭をぶつけ合う。しかし次の瞬間、それがあった場所は千尋の谷となり、次の山が背後にできている。
舵柄を握る舵取りは横波が当たらないよう、うまくうねりに船首を向けようとするが、大型船なので操船も自在というわけにはいかない。その度に山の頂が鞭のようにしなり、荷の上に叩きつけられる。それによって海水が船底に溜まり、さらに舵が利きにくくなるという悪循環に陥る。
先ほどから、「舵の利きが悪くなった」という声が耳に入ってきていた。
このまま突き進めば佐渡海峡の中心部に到達する。そこで舵が利かない状態に陥れば、水船になってしまう。
——いや、市蔵さんと考えた船は、そんなやわじゃねえ!
そう自分に言い聞かせようとするが、不安はうねりのように押し寄せてくる。
しかも安乗丸は次第に逆風域に入り、間切りで走るのも困難になってきた。逆潮にもなるので、進んでいるように見えて全く進んでいないことも考えられる。
あまりの波浪に、さすがの弥八郎も気分が悪くなってきた。遂には、艫矢倉と呼ばれる屋根付き部屋の中で垣立に摑まり、立っているのがやっとの状態となった。
——船体は心配ないか。
風波の音の間で、たまに悲鳴を上げるような軋み音が聞こえると、弥八郎は気が気でなくなる。
そこに外から孫四郎が入ってきた。
「弥八郎さん、船頭さんが荷打ちしたいと言っています」
「荷打ちだと。冗談じゃねえ。あの米は、佐渡の子らのためのもんだ。そんな簡単に海に捨てるわけにはいかねえ」
「それは船頭さんに言ってください」
孫四郎が口を尖らせる。
「分かったよ。わいが行ってくる」
何とか垣立を伝って外に出ると、帆がほとんど畳まれていた。千石船の場合、二十五反帆で、約二十メートル四方の四角帆を張るが、それが十分の一ほどしか張られていない。それだけ風が強いのだ。
「『つかし』をするぞ。舵を引き上げろ。垂らしを流せ!」
船頭の指示により、舵が引き上げられ垂らしが落とされていく。これにより、うねりを船尾に受けることが避けられ、波浪によって舵や外艫が破壊されることはなくなった。だが、この態勢を取るということは、帆走をあきらめたことになる。
「船頭さん、何をやっている!」
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