あばらの傷も癒えた嘉右衛門は、知り合いの漁師を手伝い、その見返りに魚をもらうことで何とか食いつないでいた。体だけは、まだ無理が利く上、漁を手伝っている時は嫌なことも忘れられる。
だが家に帰って一人になると、寂しさや先行きの不安が押し寄せてくる。
——どうして、こんなことになっちまったんだ。
考えても詮ないことなのだが、あれよあれよという間に転落していく己の人生に、嘉右衛門は戸惑うことしかできなかった。
——かつてわいは塩飽一の船大工と称えられ、この厚司を着て、肩で風を切って歩いていた。
たとえ隠居しても、作事場が続く限り、嘉右衛門は誇りを持って生きることができた。だが、その誇りの源だった作事場もなくなったことで、嘉右衛門は「ただの人」となり、肩身の狭い思いをしながら、死を迎える日まで無為に時を過ごさねばならないのだ。
——みんなも、いなくなっちまった。
肉親だけでなく、かつては嘉右衛門一家と呼ばれるほど結束の固かった大工たちも、ほかの島に移ったり、漁師に転じたりして、一人また一人と嘉右衛門の許から去っていった。
——もうあの日々は、二度と戻ってこないんだな。
嘉右衛門は、こんな人生の終幕が待っているとは思いもしなかった。
ひよりが牛島を去った翌日、いつものように漁を終えて家に帰ると、誰かが勝手に上がり込んで煙管をふかしていた。
「おう、嘉右衛門さん」
「こいつは驚いた。正次さんじゃねえか」
五左衛門の弟の正次が、ようやく丸亀からやってきたのだ。
正次は嘉右衛門とは同い年で幼い頃から一緒に育ったので、五左衛門よりも親しい間柄だった。
「勝手に上がらせてもらっているよ」
そう言いながら、正次は大徳利に入った酒を示した。
「ちょうどいいや。今日は大漁で食いきれないほど魚をもらったんだ。さばくから、ちょっと待ってくんな」
台所に入った嘉右衛門は手早くマダイをさばくと、正次の待つ居間に持っていった。
「こいつはうまそうだな」
二人は舌鼓を打ちながら刺身をつまんだ。
世間話や近況を語りながら酒を飲んでいると、正次が本題に入った。
「此度は丸尾屋の寄合で戻ってきた」
「やはり、それで来たんだな」
「ああ、しょうもない寄合だったがな」
「何があった」
「先代の遺言書にある通り、わいら年寄衆六人の合意を取り付けてからでないと、重正は丸尾屋の商いに関して何も決められないとなっていた。だが、もうそんなもんは知らんと言うんや」
「何だって——」
「わいも怒ったし、ほかの年寄たちも文句をつけたが、重正は『あんたらは、丸尾屋の商いにもうかかわらんといて下さい』と言うんや」
何らかの軋轢はあると思っていたが、まさか重正が、丸尾屋の商売から正次たち年寄を排除するとは思ってもみなかった。
「しかし先代の遺言がある」
「ああ、わいもそれを言った。だが重正は『時代は変わり、それに合わせて商いも変えていかなければならない。このまま何もせんで丸尾屋が苦境に陥った時、あんたらは助けてくれんのか』と言うんや。そこまで言われたら、わいらも身を引くしかない」
「ああ、でも考えてみれば、重正の言葉にも一理ある」
「そうだな。わいらの知らんところで、奴も頭を悩ませているんだろう」
冷静になれば、重正の立場も理解できる。
「嘉右衛門、すまんかった」
「もういいよ。仕方ねえ」
そうは言ってみたものの、これで作事場を復活させる最後の頼みの綱も断たれたことになる。
嘉右衛門の落胆は大きかった。
「そいで、お前に話があるんやがな」
「何や」
「お前さえよかったら、丸亀に移ってこんか。熊一と梅も一緒にな」
「移ってどうする」
「わいんとこで働かんか」
だが正次の事業に船造りはない。
「行って何をする」
「熊一には廻船の仕事に携わってもらう。梅ちゃんも客の応対ができるしな。お前には——」
正次が言いにくそうにしている。
「なんだ。はっきり言え」
「分かったよ。家のことを手伝ってくれんか」
「釜焚きや庭掃除か」
それには何も答えず、正次が盃を干した。
——そういうことか。
だが、ここでこんな暮らしをするくらいなら、正次の下で雑用をしている方がましだ。
「ほかの連中はどうする」
「ほかの連中て、大工たちのことか」
「そうだ」
「無理言うな。わいんとこだって、お前ら三人を雇うので精一杯や」
正次は、それほど手広く商売しているわけではない。正次の下で働いている者も二十人ほどで、三人雇ってもらうだけでも破格の話なのだ。
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