ただ弥八郎さんに会いたいという気持ちには、強いものがあります」海に挑む時ー10

「俺はまだ終わっちゃいねえ!」 江戸時代初期、江戸の町に食糧危機が迫っていた。必要なのは物流革命の切り札「千石船」━━。 息子も居場所も仕事の誇りもすべてを失い、老いにどん底まで追い詰められた男が逆襲する! 『男たちの船出』は、イノベーションの生みだす様々なジレンマを、船大工たちの視点で描いた長編時代小説です。 (火・木 10時更新)

 ひよりが嘉右衛門の家にやってきたのは、嘉右衛門が重正を殴打してから数日後のことだった。

「何でえ、あらたまって」

 嘉右衛門が表口へ出ると、旅姿のひよりがいた。

「よろしいですか」

 嘉右衛門は「入んなよ」と言ったが、ひよりは土間に正座した。

「何をやってるんだ。上がれよ」

 しかしひよりは、その場に手をついて言った。

「今日は、お別れを申し上げに来ました」

「何だって。いったいどうして—」と言いかけて、嘉右衛門は気づいた。

 —ここにいても、もう食べていけないってことか。

しようながら、ひよりも作事場から給金をもらって生活していた。それが絶たれれば、新たな糧を得る手立てを探していくしかない。

 —だがこの島にいても、おなに向いた仕事はねえ。

 唯一、丸尾屋の女中の仕事はあるが、丸尾屋と関係が悪化してしまった今、作事場で働いていたひよりが雇ってもらえるとは思えない。

「上がんなよ」

「いいえ、もう船が出ます。長居はできないので、ここでお暇します」

「そうか—」

 嘉右衛門が上がりかまちに座ると、ひよりは再び頭を深く下げた。

「皆さんに親切にしていただき、とても楽しい日々がすごせました。一時は、この島に骨をうずめるつもりでいました」

 ひよりは、込み上げてくるものを懸命に堪えていた。

 —だからといって、もうどうしてやることもできない。

 蓄えを切り崩して暮らしている嘉右衛門には、ひよりを下女として雇うことさえできない。

「でも、そうもいかないと分かりました」

 事情を察してくれと言わんばかりに、ひよりが目を落とす。

「で、これからどうするっていうんだい」

「佐渡島に行きます」

「何だって」

 嘉右衛門は啞然とした。

 —わいら以上に、この娘は性根が据わっている。

 牛島で生まれた者は、牛島を出ることなど怖くてできない。せめて塩飽の別の島で仕事を見つけ、いつか牛島に戻ってくるつもりでいる。そうした島の者たちとは違い、外からやってきたひよりは強かった。

「佐渡島に行って、弥八郎さんをお助けします」

「だからって—」

「路銀のことですね」

「ああ、心許ないんじゃねえか」

 いくらため込んでいたとしても、ひよりの給金では本州に渡るのがやっとのはずだ。

「もちろん、大坂に行くぐらいの船代しか、持ち合わせはありません」

 本州側と塩飽を結ぶ便船は、備前国のじま港から出ている。そこで便船を乗り換えて大坂まで行くことになる。

「それからどうやって佐渡島に渡るんだ」

「女の身一つで佐渡島まで行くのは、容易なことではありません。下働きでも何でもしながら路銀を稼ぎ、何とか佐渡島に向かう手立てを考えます」

「だが、道中は危険だぞ」

「分かっています。でも何があるか分からないからといって尻込みしていては、何もできません」

 —その通りだ。

 ひよりの言葉は、千石船を造る取り組みを放棄したがために、こうなってしまった嘉右衛門の人生を言い当てていた。

「それほどまでに、あいつのことを—」

「はい。弥八郎さんは、わたしを苦界から救ってくれた恩人ですから」

「奴にあるのは恩義だけか」

 ひよりが首を左右に振る。

「分かりません。ただ弥八郎さんに会いたいという気持ちには、強いものがあります」

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男たちの船出

伊東 潤
光文社
2018-10-30

コルク

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