ひよりが嘉右衛門の家にやってきたのは、嘉右衛門が重正を殴打してから数日後のことだった。
「何でえ、あらたまって」
嘉右衛門が表口へ出ると、旅姿のひよりがいた。
「よろしいですか」
嘉右衛門は「入んなよ」と言ったが、ひよりは土間に正座した。
「何をやってるんだ。上がれよ」
しかしひよりは、その場に手をついて言った。
「今日は、お別れを申し上げに来ました」
「何だって。いったいどうして——」と言いかけて、嘉右衛門は気づいた。
——ここにいても、もう食べていけないってことか。
些少ながら、ひよりも作事場から給金をもらって生活していた。それが絶たれれば、新たな糧を得る手立てを探していくしかない。
——だがこの島にいても、女子に向いた仕事はねえ。
唯一、丸尾屋の女中の仕事はあるが、丸尾屋と関係が悪化してしまった今、作事場で働いていたひよりが雇ってもらえるとは思えない。
「上がんなよ」
「いいえ、もう船が出ます。長居はできないので、ここでお暇します」
「そうか——」
嘉右衛門が上がり框に座ると、ひよりは再び頭を深く下げた。
「皆さんに親切にしていただき、とても楽しい日々がすごせました。一時は、この島に骨を埋めるつもりでいました」
ひよりは、込み上げてくるものを懸命に堪えていた。
——だからといって、もうどうしてやることもできない。
蓄えを切り崩して暮らしている嘉右衛門には、ひよりを下女として雇うことさえできない。
「でも、そうもいかないと分かりました」
事情を察してくれと言わんばかりに、ひよりが目を落とす。
「で、これからどうするっていうんだい」
「佐渡島に行きます」
「何だって」
嘉右衛門は啞然とした。
——わいら以上に、この娘は性根が据わっている。
牛島で生まれた者は、牛島を出ることなど怖くてできない。せめて塩飽の別の島で仕事を見つけ、いつか牛島に戻ってくるつもりでいる。そうした島の者たちとは違い、外からやってきたひよりは強かった。
「佐渡島に行って、弥八郎さんをお助けします」
「だからって——」
「路銀のことですね」
「ああ、心許ないんじゃねえか」
いくらため込んでいたとしても、ひよりの給金では本州に渡るのがやっとのはずだ。
「もちろん、大坂に行くぐらいの船代しか、持ち合わせはありません」
本州側と塩飽を結ぶ便船は、備前国の児島港から出ている。そこで便船を乗り換えて大坂まで行くことになる。
「それからどうやって佐渡島に渡るんだ」
「女の身一つで佐渡島まで行くのは、容易なことではありません。下働きでも何でもしながら路銀を稼ぎ、何とか佐渡島に向かう手立てを考えます」
「だが、道中は危険だぞ」
「分かっています。でも何があるか分からないからといって尻込みしていては、何もできません」
——その通りだ。
ひよりの言葉は、千石船を造る取り組みを放棄したがために、こうなってしまった嘉右衛門の人生を言い当てていた。
「それほどまでに、あいつのことを——」
「はい。弥八郎さんは、わたしを苦界から救ってくれた恩人ですから」
「奴にあるのは恩義だけか」
ひよりが首を左右に振る。
「分かりません。ただ弥八郎さんに会いたいという気持ちには、強いものがあります」
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