空に敷きつめられた雲は重く垂れこめ、今にも雪か雨が降ってきそうに見える。風は強く波も大きい。だがそれは、この季節の佐渡では至って普通の天候なのだ。
船子たちの顔には緊張が漲っているが、「今日はやめた方がよい」という者はいない。
——これならいける。
弥八郎は確信を持っていた。
小木港には大小取り混ぜて数十の船が停泊しているが、安乗丸は港の主であるかのように、堂々たる姿で港内に鎮座している。
だがよく見ると、巨大な安乗丸でさえ、うねりに乗って上下動を繰り返していた。
「沖は荒れていそうですね」
磯平が心配そうに言う。
「ああ、荒吹いてるだろうな」
弥八郎の着る厚司の裾も翻り始めた。
「ぼん、やはり、わいが行きます」
「もう、わいが乗っていくと決めたんだ。皆にもそう告げてある。ここで船大工が代われば、わいが佐渡の海に怖気づいたと思われる」
弥八郎は、今回の初航海だけは自分が乗っていくと決めていた。
「分かりました。もう何も言いません」
磯平は幾度となく「自分が乗る」と申し出たが、弥八郎は聞かなかった。それでも緊急の修理が発生した際、一人ではできない作業もあるので、甚六を連れていくことにした。
「お待たせしました!」
遅れていた甚六が追い付いてきた。
「遅いぞ」
「すいません。縫釘や通り釘をそろえていたんです」
甚六は、己と弥八郎の道具箱を肩に載せている。
「甚六、しっかり頼むぞ」
「おっとっと。おっとっと」
磯平が肩を叩いたので、甚六が道具箱を落としそうになる。
そのおどけた動作が可笑しく、二人は大笑いした。
三人が桟橋で瀬取船を待っていると、見送りに来た七兵衛と清九郎が近づいてきた。
「いよいよだな」
「はい。帰途は新潟から米を運んできます」
「それはいいが、無理せんようにな」
七兵衛は心配顔である。
「伝馬は載せたな」と清九郎が問う。
「もちろんです」
安乗丸には、万が一の場合、乗っている者全員が乗り移れる大きさの伝馬船を積載している。これは七兵衛が始めたことで、東回り西回りの廻船にも義務付けられていた。
「孫四郎の姿が見えないようですが、どうかしましたか」
「そういえば今朝は見ていないな」
清九郎が首をかしげる。
「あいつは朝が弱いからな。寝坊してるんだろう」
孫四郎は、そのことで幾度となく清九郎に叱られていた。
「いいですよ。すぐに戻ってくるんですから」
「弥八郎、しっかりやれよ」
七兵衛が真顔になって言う。
「はい。必ずやり遂げます」
その時、ちょうど船子たちを先に運んだ瀬取船が近づいてきた。瀬取船から投げられた舫綱を受け取った磯平が、それを船留に巻き付けている。
「七兵衛さん、ありがとうございました」
「なんだ、あらたまって」
「なぜか、お礼が言いたくて」
「お前には、まだまだやらせたいことがある。その度に、いちいち礼などされてはたまらんよ」
「それもそうですね」
「わいは、お前の命を嘉右衛門さんから預かっているも同じだ。くれぐれも気をつけるんだぞ」
「分かっています」
七兵衛の口から嘉右衛門の名が出たことで、弥八郎は故郷のことを思い出した。
——みんな、見ていろよ!
弥八郎の脳裏に、嘉右衛門、梅、ひよりらの顔が次々と浮かぶ。
それを振り払うようにして弥八郎は言った。
「それでは行ってきます」
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