運命の海峡|1ー8

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

 三人は「銅鑼餐館」で遅い夕食を取ることになった。バレットは夕食を済ませてきていると言いながら、二人と同じように飲んで食べた。

 鮫島は、欧米人の食欲が日本人の比ではないことを知った。

 ──これでは戦争に負ける。

 バレットは無類のけんたんだった。

 香港ビールと老酒ラオチユウを飲んでいるうちに、バレットは打ち解けて様々な話をしてくれた。

 彼はイギリスの南東端にあるケント州カンタベリーの出身で、父親は労働者階級だった。奨学金をもらい、働きながら地方の大学を出たバレットだったが、戦争が始まったので志願して海軍に入隊し、事務方として香港に配属された。ところが配属されて一年も経たないうちに日本軍の侵攻があり、多くの同僚と共に捕虜とされ、台湾の俘虜収容所に連れていかれたという。

 その環境は劣悪そのもので、同僚や兵士が病に倒れても、日本軍は薬一つくれなかった。それだけならまだしも、待遇改善を訴えたところ、バレット自身がひどく殴打され、死線をさまよったらしい。

 台湾俘虜収容所の所長ら三人は、すでに戦犯裁判で死刑を申し渡されているが、公判を通して、捕虜の虐待などなかったと主張していた。彼らの公判調書によると、内地から食料や物資が届かず、マラリヤなどの熱病に罹患しても、自分たちの薬品さえなかったという。

 空襲が激しくなり、収容所を山間部に移すことにしたが、この時の工事でイギリス兵を酷使したという捕虜たちの主張も、実際は彼らのための避難であり、収容所長たちは酷使には当たらないと反論していた。

 だが捕虜たちの怒りは激しく、その結果、この件だけで死刑者や懲役刑の者が続出していた。

 イギリス人は日本兵が中国人を殺したり、虐待したりしたことには、あまり関心を寄せないが、イギリス人の同胞が少しでもひどい目に遭ったとなると、その件にかかわった日本人を、少なくとも一人は死刑にするまで収まらなかった。

「台湾では、それほどひどい目に遭ったのか」

 河合が、酒でれつの回りにくくなった舌で問う。本人は英語のつもりなのだが、バレットが首をかしげているので、鮫島が伝えてやった。

「ひどいなんてものではありません。劣悪な環境下で、多くの同胞が死んでいきました」

「戦争とは、そういうもんじゃないか」

「それは違います。ジュネーヴ条約によって交戦国の捕虜の権利は保障されています」

 ──厳密に言えば、日本はジュネーヴ条約を準用するということで、正式には批准していない。

 だが今更、それを言っても始まらない。準用という曖昧な言葉は欧米人に通じにくく、日本政府が条約を批准していないにもかかわらず、多くの戦犯がジュネーヴ条約に違反したかどで罰せられている。

 ──だが、これだけは言っておかねばならない。

 鮫島はたまらず口を挟んだ。

「君が知っているかどうか分からんが、台湾俘虜収容所では、どことも交戦していないにもかかわらず、日本兵の五人に一人が病死している。この数字は捕虜たちの病死率よりも高い」

 一瞬、バレットが驚いた顔をする。

「収容所長は毎日のように参謀本部に手紙を書き、物資や薬品を要求し、捕虜たちを内地に移送することを懇請していた」

 敗戦確定時に軍令部はすべての書類を焼いたので、所長の手紙は一切出てこなかったが、多くの者たちがそれを証言した。だが法廷では、証拠不十分として取り上げられなかった。

 バレットが、ただでさえ赤くなった顔をさらに紅潮させる。

「そうは言っても、収容所の毎日は地獄でした。われわれは、死にゆく友を看取ることしかできなかった。水さえもろくになかったのです」

 ──おそらくその通りだろう。だがそれは、日本兵も同じだったのだ。

 双方の言い分はどちらも正しい。正しいがゆえに戦争という行為の空しさが際立つ。

「君は収容所長に会ったことはあるのか」

「顔を見たことはありますが、尊大な男でした」

「尊大かどうかは、話してみないと分からないだろう」

「あの偉そうな態度を見れば明らかです」

 ──これも文化の違いか。

 鮫島はため息をついた。

 地位の高い日本人男性は、軍人でなくてもめったに笑顔を見せない。ましてや捕虜に対して、「大丈夫か」とか「何かほしいものはあるか」といった言葉などかけることなどない。確かにそうした言葉をかければ、何も与えずとも捕虜たちは「温情があった」と証言してくれたかもしれない。

 実は、収容所長は兵学校で教鞭をとるほどの学究肌の人物で、人格者として有名だった。すでに高齢なので予備役に編入されていたが、人材不足から駆り出されたことで、こうした不運に見舞われてしまった。気の毒としか言いようがないが、これも戦争の現実なのだ。

 河合が二人に葉巻を勧めたが、二人とも首を左右に振ったので、「失礼」と言って吸い始めた。

「バレット少佐は、これから法曹関係者として生きていくのか」

「もちろんです。そのために故郷にも帰らず、ここに残っています」

「これまでは確か──」

「法廷では何度か執行官を務めたことはありますが、大半は公判の下調べといった地味な仕事です。大学で法律を専攻していなかったので、仕方ありません」

 イギリス法廷における執行官とは、法廷の秩序を守る仕事で、たいていの場合、公判の冒頭で「Court!」と叫ぶくらいしか仕事らしい仕事はない。

 バレットの大学での専攻は建築学で、当初はその方面に進むつもりでいた。だが戦犯裁判を調べるにつれ、悪や不正を憎む気持ちが強くなり、帰国してからも法曹関係の仕事を続けるつもりでいるという。

 バレットの盃に老酒を注ぎながら、鮫島が問う。

「君は戦犯裁判で裁判官をやりたいのか」

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

コルク

この連載について

初回を読む
真実の航跡

伊東潤

一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません