「ということだ」
鮫島が分厚いファイルを閉じる。
半ば眠っていたかのように瞑目していた河合が、葉巻に火をつけた。
「この作戦は、あらゆることが齟齬を来しているな」
「ああ、珍しいぐらいだ。同じ兵学校を出ていながら、五十嵐中将と乾大佐は全く嚙み合っていない」
「海軍の価値観からすれば、乾が異端なんだろう」
それについて鮫島には何とも言えないが、乾の行動が矛盾に満ちていることだけは間違いない。
河合が突然、話題を転じた。
「そういえば、夕食を食べ損ねたな」
鮫島も腹が減っていることに気づいた。
「オーダリーに頼んでみるか」
「いや、彼らも疲れていて可哀想だ」
弁護士や通訳の身の回りの世話は、オーダリーと呼ばれる元日本兵が引き受けていた。宿舎内の炊事、洗濯、掃除などの雑用を受け持つ彼らは、戦犯裁判で無罪判決を受けた者や、こちらに連れてこられてから、証拠不十分などで不起訴処分となった者たちから成っている。
彼らは無罪や不起訴なので、法的には何の拘束力もないはずだが、イギリス人は彼らを奴隷のようにこき使っていた。不当な扱いを申し立てることもできるのだろうが、そんなことをすれば、日本に帰る船賃もない無一文の状態で放り出される。つまり街角で途方に暮れているうちに、中国人に袋叩きにされるかもしれない。そのため彼らは、イギリス人たちの機嫌を損ねないように、びくびくしながら働いていた。
河合が元気よく立ち上がった。
「行くか」
「行くかって、どこに」
「湾仔だ」
「もうレストランは閉まっているだろう」
腕時計を見ると十時を回っている。
「この街は眠らない」
「門衛が、われわれを出してくれるはずがあるまい」
「いや、われわれは自由人だ。頼んでみるに越したことはない」
河合がにやりとした。
正門まで行き当直のイギリス兵に事情を話すと、責任者らしき下士官が出てきて、懐中電灯で顔を照らした。彼らは東洋人の顔が判別しにくいらしく、じっくりと見た末、「出ていくのは構わんが、自己責任だぞ」と念を押した。
「分かっています」と答えると、ノートに日付と時刻、そして「すべての行動は自己責任です」と書かされた上、サインをさせられた。
これで外に出ることはできたが、出てみたら出てみたで心細くなってきた。しかし河合は、臆せずにどんどん進んでいく。
宿舎となった裁判所前の電車通りを南に歩いていくと、約二十分で香港一の歓楽街・湾仔に着く。ここには、戦時中まで日僑と呼ばれていた日本人の店も相当あったらしいが、敗戦と同時に焼き打ちなどに遭い、今、日本人は一人もいないという。
湾仔のメインストリートのヘネシー・ロードでは、いまだ多くの店が開き、多くの人々が行き来していた。
風がないので蒸し暑さは格別で、じっとりと汗がにじんでくる。前を歩く河合の首筋が光っているのも、汗のせいに違いない。
昼と見まがうばかりに明るいエリアに入った。
こんな遅くに買い手がいるのかと心配になるくらい、露天商たちは日用品を路上に広げていた。固定店舗の店先にも、獣の腸、羽をむしられた鶏や鴨、豚の頭や足、奇妙な形の熱帯果実が並べられている。
花柳病に罹った性器の写真を飾り、得体の知れない薬を売っている露店、何事か大声で口上を述べながら、手品のようなものを見せて怪しげな軟膏を売る者、胡弓を奏でて男を惹きつけ、背後の宿に引き込もうとする売春婦などは、日本では決してお目にかかれない商法だった。
そんな中、筮竹をじゃらじゃらさせながら、何十人もの易者たちが並んで店を出していたのには驚いた。どうやらまとまって店を出した方が、客の入りがいいらしい。しかし客の取り合いなのか、怒鳴り合いをしている者もいる。
──皆、生きるのに必死なのだ。
香港の中国人たちにとって、すでに終わった戦争などどうでもよいことで、とにかく生きていくために、今日の糧を得ねばならないのだ。
ふと脇の路地に目を向けると、阿片によって廃人となったとおぼしき人々が、何をするでもなく、しゃがんで表通りを見つめていた。その顔は決まって土気色をしており、着ているものは汗染みの浮いた薄汚いもので、彼らが過酷な日々を送っていることを物語っていた。
──彼らに比べれば、日本ははるかにましだ。
どういうわけか日本人の多くは勤勉で、都市という都市が焼け野原にされても、凄まじい速度で復興に邁進している。横浜や神戸には阿片も流入してきていると聞いたが、その流行は一部の労働者や売春婦などにとどまっているという。
──日本人とは何とも奇妙な民族だ。
日本人が茫然自失になったのは、敗戦後の極めて短い期間であり、その後は七千万人余の国民が一丸となり、必死に生活の再建をしている。おそらく十年後には、戦争の傷跡も一掃されていることだろう。
──だが、ここは違う。
日本とイギリスの狭間で翻弄された香港人たちは、阿片に逃げるしかなかったのだ。
湾仔にはイギリス海軍の水兵の姿も多く見られ、そのおかげで鮫島たちは、客引きにも目を付けられずに済んでいた。
だが河合は、頭上の看板を眺めては首をかしげている。
「おい、どうした」
「一度連れてきてもらったことのある『銅鑼餐館』というレストランに行こうと思っているんだがね」
「ああ、あの店ならメインストリート沿いだろう」
「いや、一本中に入った通りじゃなかったっけ」
河合が脇道にそれた。脇道には表通りにない独特の饐えた臭いが漂い、あばら骨を見せた犬たちが路上に捨てられた何かをあさっている。そんな光景を見ていると食事をする気も失せてくる。
「明日からはたいへんだ。どこかに早く入ろう」
「ああ、分かっている」
「こんなところで日本人だとばれたら、袋叩きに遭うぞ」
「日本語で話し掛けなければ、日本人だとは気づかれないさ」
だが二人とも白い開襟シャツを着ており、行き来する人々との違いは歴然だった。
鮫島は河合の度胸に恐れ入ったが、河合はのんきに周囲を見回しながら「おかしいな」などと言っている。
「表通りに戻ろう」
鮫島が河合の袖を取った時だった。前方を遮るように三人の男が立っているのが見えた。慌てて振り向くと背後にも人がいる。
「どうやらまずいことになったな」
それでも河合は落ち着いている。
「河合、何があっても手を出すなよ。相手に怪我をさせれば、俺たちがジェイル入りとなる」
相手は六人だが、瘦せていて背も低いので突破できないこともなさそうだ。だが、こんな深夜に日本人弁護士が暴力事件を起こせば、日本人の信用は失墜し、海外渡航解禁は先延ばしにされるかもしれない。
「逃げるか」
河合が聞いてきたが、鮫島は首を左右に振った。
「走って逃げようにも、闇雲に走れば道に迷い、もっとまずいことになるぞ」
「じゃ、やられるしかないってわけか」
殴られるに任せたとしても、下手をすると命を失いかねない。
──やはり抵抗するしかないのか。
その時、相手の一人が前に出ると何事かを問うてきた。だが二人とも中国語など分からない。ただその言葉の中に、「ジャップ」という単語があったので、怒りに溢れていることは分かった。
「OK, what do you want?」
鮫島が笑みを浮かべて英語で問うたが、通じているのかいないのか、中国人の顔に浮かんだ感情は読み取れない。
じわじわと迫ってきた中国人たちは、鮫島と河合を煉瓦塀まで追い込んだ。
「鮫島、このままだと殺される。とにかく逃げよう」
「待て。興奮させたらまずい」
鮫島はポケットの中から十ドル紙幣を取り出すと、男の目の前で振った。
だが男は、それを受け取ろうとしない。
──本気で怒っているのか。
男の目には怒りと憎悪が渦巻いていた。それを見れば、ゆすりやたかりの類でないのは明らかだった。
「Jap killed my brother!」
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。