運命の海峡|1ー7

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

「ということだ」

 鮫島が分厚いファイルを閉じる。

 半ば眠っていたかのようにめいもくしていた河合が、葉巻に火をつけた。

「この作戦は、あらゆることが齟齬を来しているな」

「ああ、珍しいぐらいだ。同じ兵学校を出ていながら、五十嵐中将と乾大佐は全く嚙み合っていない」

「海軍の価値観からすれば、乾が異端なんだろう」

 それについて鮫島には何とも言えないが、乾の行動が矛盾に満ちていることだけは間違いない。

 河合が突然、話題を転じた。

「そういえば、夕食を食べ損ねたな」

 鮫島も腹が減っていることに気づいた。

「オーダリーに頼んでみるか」

「いや、彼らも疲れていて可哀想だ」

 弁護士や通訳の身の回りの世話は、オーダリーと呼ばれる元日本兵が引き受けていた。宿舎内の炊事、洗濯、掃除などの雑用を受け持つ彼らは、戦犯裁判で無罪判決を受けた者や、こちらに連れてこられてから、証拠不十分などで不起訴処分となった者たちから成っている。

 彼らは無罪や不起訴なので、法的には何の拘束力もないはずだが、イギリス人は彼らを奴隷のようにこき使っていた。不当な扱いを申し立てることもできるのだろうが、そんなことをすれば、日本に帰る船賃もない無一文の状態で放り出される。つまり街角で途方に暮れているうちに、中国人に袋叩きにされるかもしれない。そのため彼らは、イギリス人たちの機嫌を損ねないように、びくびくしながら働いていた。

 河合が元気よく立ち上がった。

「行くか」

「行くかって、どこに」

「湾仔だ」

「もうレストランは閉まっているだろう」

 腕時計を見ると十時を回っている。

「この街は眠らない」

「門衛が、われわれを出してくれるはずがあるまい」

「いや、われわれは自由人だ。頼んでみるに越したことはない」

 河合がにやりとした。


 正門まで行き当直のイギリス兵に事情を話すと、責任者らしき下士官が出てきて、懐中電灯で顔を照らした。彼らは東洋人の顔が判別しにくいらしく、じっくりと見た末、「出ていくのは構わんが、自己責任だぞ」と念を押した。

「分かっています」と答えると、ノートに日付と時刻、そして「すべての行動は自己責任です」と書かされた上、サインをさせられた。

 これで外に出ることはできたが、出てみたら出てみたで心細くなってきた。しかし河合は、臆せずにどんどん進んでいく。

 宿舎となった裁判所前の電車通りを南に歩いていくと、約二十分で香港一の歓楽街・湾仔に着く。ここには、戦時中までにつきようと呼ばれていた日本人の店も相当あったらしいが、敗戦と同時に焼き打ちなどに遭い、今、日本人は一人もいないという。

 湾仔のメインストリートのヘネシー・ロードでは、いまだ多くの店が開き、多くの人々が行き来していた。

 風がないので蒸し暑さは格別で、じっとりと汗がにじんでくる。前を歩く河合の首筋が光っているのも、汗のせいに違いない。

 昼と見まがうばかりに明るいエリアに入った。

 こんな遅くに買い手がいるのかと心配になるくらい、露天商たちは日用品を路上に広げていた。固定店舗の店先にも、獣の腸、羽をむしられた鶏や鴨、豚の頭や足、奇妙な形の熱帯果実が並べられている。

 りゆう病にかかった性器の写真を飾り、得体の知れない薬を売っている露店、何事か大声で口上を述べながら、手品のようなものを見せて怪しげななんこうを売る者、きゆうを奏でて男を惹きつけ、背後の宿に引き込もうとする売春婦などは、日本では決してお目にかかれない商法だった。

 そんな中、ぜいちくをじゃらじゃらさせながら、何十人もの易者たちが並んで店を出していたのには驚いた。どうやらまとまって店を出した方が、客の入りがいいらしい。しかし客の取り合いなのか、怒鳴り合いをしている者もいる。

 ──皆、生きるのに必死なのだ。

 香港の中国人たちにとって、すでに終わった戦争などどうでもよいことで、とにかく生きていくために、今日の糧を得ねばならないのだ。

 ふと脇の路地に目を向けると、阿片によって廃人となったとおぼしき人々が、何をするでもなく、しゃがんで表通りを見つめていた。その顔は決まって土気色をしており、着ているものは汗染みの浮いた薄汚いもので、彼らが過酷な日々を送っていることを物語っていた。

 ──彼らに比べれば、日本ははるかにましだ。

 どういうわけか日本人の多くは勤勉で、都市という都市が焼け野原にされても、すさまじい速度で復興にまいしんしている。横浜や神戸には阿片も流入してきていると聞いたが、その流行は一部の労働者や売春婦などにとどまっているという。

 ──日本人とは何とも奇妙な民族だ。

 日本人が茫然自失になったのは、敗戦後の極めて短い期間であり、その後は七千万人余の国民が一丸となり、必死に生活の再建をしている。おそらく十年後には、戦争の傷跡も一掃されていることだろう。

 ──だが、ここは違う。

 日本とイギリスの狭間で翻弄された香港人たちは、阿片に逃げるしかなかったのだ。

 湾仔にはイギリス海軍の水兵の姿も多く見られ、そのおかげで鮫島たちは、客引きにも目を付けられずに済んでいた。

 だが河合は、頭上の看板を眺めては首をかしげている。

「おい、どうした」

「一度連れてきてもらったことのある『銅鑼餐館トンローチヤングン』というレストランに行こうと思っているんだがね」

「ああ、あの店ならメインストリート沿いだろう」

「いや、一本中に入った通りじゃなかったっけ」

 河合が脇道にそれた。脇道には表通りにない独特のえた臭いが漂い、あばら骨を見せた犬たちが路上に捨てられた何かをあさっている。そんな光景を見ていると食事をする気もせてくる。

「明日からはたいへんだ。どこかに早く入ろう」

「ああ、分かっている」

「こんなところで日本人だとばれたら、袋叩きに遭うぞ」

「日本語で話し掛けなければ、日本人だとは気づかれないさ」

 だが二人とも白い開襟シャツを着ており、行き来する人々との違いは歴然だった。

 鮫島は河合の度胸に恐れ入ったが、河合はのんきに周囲を見回しながら「おかしいな」などと言っている。

「表通りに戻ろう」

 鮫島が河合の袖を取った時だった。前方を遮るように三人の男が立っているのが見えた。慌てて振り向くと背後にも人がいる。

「どうやらまずいことになったな」

 それでも河合は落ち着いている。

「河合、何があっても手を出すなよ。相手に怪我をさせれば、俺たちがジェイル入りとなる」

 相手は六人だが、瘦せていて背も低いので突破できないこともなさそうだ。だが、こんな深夜に日本人弁護士が暴力事件を起こせば、日本人の信用は失墜し、海外渡航解禁は先延ばしにされるかもしれない。

「逃げるか」

 河合が聞いてきたが、鮫島は首を左右に振った。

「走って逃げようにも、闇雲に走れば道に迷い、もっとまずいことになるぞ」

「じゃ、やられるしかないってわけか」

 殴られるに任せたとしても、下手をすると命を失いかねない。

 ──やはり抵抗するしかないのか。

 その時、相手の一人が前に出ると何事かを問うてきた。だが二人とも中国語など分からない。ただその言葉の中に、「ジャップ」という単語があったので、怒りに溢れていることは分かった。

「OK, what do you want?」

 鮫島が笑みを浮かべて英語で問うたが、通じているのかいないのか、中国人の顔に浮かんだ感情は読み取れない。

 じわじわと迫ってきた中国人たちは、鮫島と河合をれん塀まで追い込んだ。

「鮫島、このままだと殺される。とにかく逃げよう」

「待て。興奮させたらまずい」

 鮫島はポケットの中から十ドル紙幣を取り出すと、男の目の前で振った。

 だが男は、それを受け取ろうとしない。

 ──本気で怒っているのか。

 男の目には怒りと憎悪が渦巻いていた。それを見れば、ゆすりやたかりの類でないのは明らかだった。

「Jap killed my brother!」

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真実の航跡

伊東潤

一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

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