運命の海峡|1ー6

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

 三月二日の午前七時、いよいよ拿捕艦隊はバンカ泊地を出撃した。

 索敵隊列は「妙義」「高津」「久慈」の順で、その後方に軽巡二隻および駆逐艦二隻が付く。

 重巡三隻への補給をスマトラ西岸で済ませた後、軽巡と駆逐艦はリンガ泊地へと戻り、拿捕艦隊は重巡三隻だけになるという計画である。

 本来なら対潜哨戒のため、軽巡と駆逐艦も随行させたいところだが、重油が底をつき始めており、対潜哨戒能力に優れた三隻の重巡だけの編制となった。そうしたこともあって作戦期間は十四日間と限られ、その期間内に収穫がなかった場合、すみやかに撤収し、次の出撃命令を待てということだった。

 艦隊は、速力十四ノットの巡航速度で南下を開始した。

 三日の午前四時にスマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通過すると、急に波が高くなり風も強くなってきた。

 ──これが名にし負うインド洋か。

「妙義」の艦橋から荒れ狂う海を見ながら、五十嵐は「帝国海軍は遂にここまで来たか」という感慨を抱いていた。

 この日も天気は曇りで視界は利かず、しかもピッチング(縦揺れ)とローリング(横揺れ)がひどいため、水上偵察機の発艦はできても回収は困難という報告が入った。空母と違って巡洋艦などの偵察機はフロートで海面に降り立つため、海が荒れていると回収できないこともある。

 四日、重巡三隻だけでの索敵が始まった。「妙義」を中央に、左に「高津」、右に「久慈」といった隊形である。

 五日は、ココス島の東百五十海里(約二百七十八キロメートル)まで進出し、水上偵察機を使って索敵したが、敵船は見つけられなかった。

 翌六日から八日にかけては快晴だったが、海が荒れて水上偵察機を発艦できない。

 九日も同様の天候で、いよいよ残存燃料は帰投ぎりぎりの量になってきた。そのため五十嵐は決断を迫られていた。

 ──もはや猶予はない。

 巡洋艦三隻を走らせ、貴重な燃料を無駄に消費しただけに終わったが、それでも燃料を切らして、インド洋で立ち往生するよりはましだ。

 五十嵐は肚を決めた。

「各艦に伝えよ。本日ヒトサンマルマルをもって帰投する」

 ヒトサンマルマルとは午後一時のことだ。

 五十嵐は収穫がなかったことに対する落胆と、ややこしい事態を招かなかったことに対する安堵が相半ばした気持ちだった。

 艦内にかんした空気が漂い始めた十二時十五分、突然、通信室から連絡が入った。

「『久慈』から報告が入りました。『水平目測距離約ヨンマルマル(四十キロメートル)に敵商船らしき煤煙を発見。針路は北西。速力は十ノット』とのこと」

 その報告に「妙義」の艦橋は色めき立った。

 艦長の藤堂が弾んだ声で言う。

「パースを出港し、セイロンに向かう商船でしょう。積み荷が満載されているはずです」

「よし、『久慈』の後を追え。『高津』にも続くよう打電しろ」

 大きくおもかじが切られ、「妙義」は北北西に針路を取った。

 しかし十三時を回っても、「久慈」を視界に捉えることはできない。「久慈」からも、あれから無線連絡が入らない。

 それから十数分後、艦橋上の見張員から「砲声らしきものが聞こえました」という報告が届いた。それによって「妙義」の艦橋は緊張した。「久慈」の見つけた船が商船ではなく特設巡洋艦などであったら、あるいは敵が艦隊を組んでいたとしたら、「久慈」は単艦で戦っていることになる。

 気持ちは焦るが、最大船速を出せば帰途の燃料が危うくなる。

「速力は十六ノットを維持せよ!」

 その直後の十三時二十七分、通信室から連絡が入った。

「緊急救難信号を受信!」

「『久慈』のものか、敵船のものか」

 しばらくして回答があった。

「敵船のものと認む!」

「誰か、敵航空基地からの来襲時間を調べよ」

 五十嵐の指示に従い、参謀らが海図を広げて距離を測定する。

「来襲可能な敵航空基地は、マダガスカル、セイロン、オーストラリア北部の三カ所。マダガスカルが最も近く、最短で二時間半ほどでここに着きます。しかし──」

「しかし何だ!」

 緊張からか、五十嵐も気が立ってきている。

「われわれが得た情報によると、マダガスカルに敵は爆撃機を置いていないはずです。となるとオーストラリアからですが、そこからだと三時間半ほど掛かります」

「分かった。それまでの勝負だ」

 むろん近くに敵の空母がいたら、その前にやってくる可能性もある。そうなれば援護してくれる航空兵力のない三隻の巡洋艦は、相応の損害を覚悟せねばならない。

「対空警戒を厳となせ!」

 その命令が艦内に伝えられると、「早くしろ!」という怒鳴り声と走り回る足音が四方から聞こえてきた。

「『久慈』は、いったい何をやっているんだ」

「なぜ、何も知らせてこない」

 藤堂や先任参謀らがいらちをあらわにする。

 これまで、あらゆるケースを想定して演習をしてきた。だが実戦では、不測の事態が起こるのが常なのだ。

 五十嵐は神経を集中し、何事も瞬時に判断できるよう身構えた。

 依然として「妙義」は北北西に進んでいた。左舷から差してくる日は次第に赤みを帯び、日没が近づいてきていることを知らせてくる。

 十五時二十二分、待ちに待った一報が見張員から入った。

「『久慈』らしき艦影を発見!」

「敵商船はどうした」

「見えません。見えているのは『久慈』一艦です」

「久慈」からも「妙義」を認めたらしく、発光信号が送られてきた。

「『久慈』からの発光信号、『ヒトサンゴーナナ(十三時五十七分)、砲撃処分終了』とのこと」

 ──砲撃処分終了だと!

 これで「久慈」が、敵商船を拿捕せずに撃沈したことが明らかとなった。

 ──あれだけ念を押したのに、どういうことだ。

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真実の航跡

伊東潤

一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

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