運命の海峡|1ー5

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

 昼食を済ませ、再び三人は河合の部屋に籠もり、事件の経緯を追うことにした。

 昭和十九年(一九四四)に入ると、アメリカ軍の反攻が本格化してきた。一月末に中部太平洋のマーシャル諸島へ上陸したアメリカ軍は、主要な島々を制圧し、日本軍の一大拠点であるトラック島への空襲を可能とした。

 これに対して連合艦隊は、トラック島に停泊していた戦艦「なが」や「そう」などをパラオへと退避させたが、案に相違せず二月中旬、トラック島は大空襲に襲われ、基地機能が再建不能になるほどの損害を受けた。

 その翌日のことだった。シンガポールのセレター軍港内に停泊する重巡「飯縄」内に置かれた第十六戦隊司令部に、篠田と小山がやってきて「飯縄」の編制替えを通達してきた。日本の北端の千島列島がアメリカ軍の攻撃を受ける可能性が高まり、急遽、「飯縄」を第五艦隊に編入させるのだという。

 連日、汗だくになって拿捕作戦の訓練を重ねていただけに、「飯縄」の艦長をはじめとした乗組員の落胆は大きく、五十嵐ら司令部も出鼻をくじかれた格好になった。

 だが篠田は「一時的に七戦隊の『久慈』と『高津』を回してもらえることになった。この作戦に懸ける軍令部の期待が大きいからだ」と言って五十嵐を励ました。

「久慈」と「高津」といえば、それぞれ六機もの水上偵察機を搭載する最新型の重巡洋艦である。その点に文句はないのだが、これまで「飯縄」と「妙義」を中心に行ってきた拿捕訓練が水泡に帰したことと、「飯縄」の艦長と艦橋で時間を共にすることで、命令の微妙な意味を理解させてきたことが無駄になったことは残念だった。

 これで司令部も「妙義」に移ることになる。それは問題ないのだが、「久慈」と「高津」の艦長が、どれほど「口達覚書」の意味を理解してくれるかは分からない。

 五十嵐は二人と面識はなかったが、乾のことは砲術理論のレポートを通して知っていた。

 篠田は「『高津』艦長のこうは実戦派だが、『久慈』艦長の乾は学究肌の堅物だ」と言っていた。確かに乾のハンモックナンバーには見るべきものはないが、専門分野における成績や実績は抜群で、いわゆる「専門馬鹿」の匂いがする。

 ──こうした奴ほど厄介だ。

 これまでの軍人としての経験から、五十嵐は軍人には二種類あると思っていた。大半の軍人は上官の意を汲んで命令を忠実にこなす。だが一部に、命令がすべてをカバーしきれないのをいいことに、自分なりの解釈を下す者がいる。そうした人間には、何かの分野に突出した知識を持つ者が多い。

 むろん将官としての適性に疑問が持たれた場合、さほど出世はできないのだが、専門的な分野で顕著な実績を収めていれば、多少の独断専行癖には目をつぶられる。しかも戦局の悪化に伴い、優秀な人材が次々と戦死してしまい、さほど出世の早くなかった乾のような人材まで、要職に抜擢されるようになってきた。

 ──まあ、取り越し苦労はしないことだ。

 五十嵐は、そう自分に言い聞かせた。


「妙義」がバタビアからリンガ泊地に移動すると、「久慈」と「高津」は先に泊地に入っていた。

 三艦がそろった日の夜、三人の艦長とその幕僚たちを「妙義」の司令官公室に集めた五十嵐は、作戦命令を伝えた。

「作戦の概要は以上だ。われわれは二月二十八日にバンカ泊地に移動し、三月初めに出撃する。出撃日は天候を見て判断する。航路はスマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通り、ココス島の南を目指す。この作戦で敵の船舶を一隻でも多く拿捕することを、篠田司令長官は望まれている」

「やりましょう」

「ご期待に沿えるよう頑張ります」

「高津」艦長の河野と「妙義」艦長のとうどうが力強く答えたが、乾は考え込んだままだ。

「乾艦長、何かあれば言ってくれ」

「質問があります。拿捕すると言っても、その位置にもよります。あまりに離れていては曳航が難しいのでは」

「その通りだ。遠い海域からの曳航となると、われわれが襲われる危険性も高くなる」

「では、拿捕可能な目安をお聞かせ下さい」

「基本的にはココス島の南二百海里を目安とするが、その時の状況にもよるので、最終的な判断は私が下す」

 敵はインド洋北部に日独の潜水艦が出没していることから、交通線をココス島の二百海里以南に移しているという噂だった。尤も拿捕艦隊の帰途の安全や燃料を考慮すると、二百海里が限界なのも確かだった。

 そのため索敵を強化すべく、三艦がココス島を基点として東・西・南に分かれて別行動を取ることも検討されたが、敵艦隊と遭遇した場合に一隻では取り逃がす可能性があり、また頻繁に無線を使うことになり、敵を引き寄せてしまうことから却下された。

 結局、三艦は五十から六十キロメートルの距離を取って並行に進み、通信手段は発光・手旗・りゆうに限り、互いに視界で捉えられない場合のみ、出力の低い隊内無線を手短に打つことになった。

 乾が問う。

「二百海里以南で敵船を見つけ、敵が降伏しなかった場合、砲撃してもよろしいのですか」

「砲撃も一つの手段だが、できるだけ拿捕するように」

「先ほどの命令とは矛盾しますが」

 ──やけに細かいことにこだわる奴だな。

 五十嵐は次第に不快になってきた。だが司令官として、そうした気持ちをあらわにはできない。

 どう答えるか迷っていると、河野が助け船を出してくれた。

「乾艦長、戦場には不確定要素が多い。ここで議論していても始まらない。その場の判断は司令官に任せましょう」

 実戦経験のない乾は、駆逐艦長や駆逐隊司令として豊富な実戦経験を持つ河野には、一歩譲るところがあった。

「分かりました」

 乾が同意したので、五十嵐はあらためて言った。

「敵船舶の撃沈は、やむを得ざる場合を除き、司令部の指示を待って実施すること。つまり私の判断を仰いでもらう。それでいいな」

「はい」と言って、河野と藤堂がうなずいたが、乾だけは腑に落ちないのか、首をかしげている。

「乾君、まだ何かあるのか」

「拿捕した場合の捕虜の扱いについてですが──」

「それについては、『口達覚書』がある。回覧してくれ」

 最初に「口達覚書」を渡された乾は、それを次席の河野に回しつつ言った。

「ここに書かれている『処分』という言葉ですが──」

「そこに書かれている通りだ。それ以上の解釈は控えたい」

「待って下さい。それでは、どうしてよいか分かりません」

 重い沈黙が垂れ込める。それを破るように河野が問う。

「つまり捕虜を救命ボートに乗せて、海上に置きざりにせよということですか」

 それを聞いた乾が色をなす。

「インド洋は名だたる荒海だと聞きます。そんなことをすれば、救命ボートなど、すぐに転覆してしまうのではないですか」

 四人の中で唯一、インド洋を航行したことのある藤堂が発言する。

「その通りです。あれほど荒れた海は太平洋にありません」

 インド洋は太平洋と大西洋と並ぶ三大洋の一つで、北にインド、北西にアラビア半島、西にアフリカ、北東にマレー半島、東にオーストラリア、そして南に南極という陸地に囲まれた広大な海である。とくに南に行けば行くほど海は荒れ、船舶の行き来はほとんどない。

 河野が妥協策を提案する。

「では、捕虜を救命ボートに乗せて洋上で放棄すると同時に、敵に無線で捕虜を放棄した地点を伝えたらいかがでしょう」

「そんなことをすれば、われわれの位置を知らせることになり、帰途に敵潜水艦の待ち伏せを受けます」

 乾の言うことは尤もだが、河野は反論した。

「敵は捕虜の救出を優先するはずです。その間に逃げ切れますよ」

 こうした議論は概して堂々めぐりになる。なぜかと言えば、その場になってみないと分からないからだ。それゆえ命令書には、基本的な作戦目標だけが記され、多くのことは現場に託される。

 三人やその幕僚たちがかんかんがくがくの議論を始めた。五十嵐は彼らが議論するのに任せて沈思黙考していた。それが逃げであるのは分かっている。だが司令官として、軍令部の命令に反することを言ったり、勝手な解釈を下したりすることはできない。

「司令官、この命令は矛盾しています」

 乾が結論のように言う。

 こうなっては無言を押し通すことはできない。

「乾君は兵学校を出ているな」

「もちろんです」

「だったら軍隊というものが、どういうものか分かっているはずだ。君も命令を受ける立場なら、私も命令を受ける立場だ。命令を受ける立場にないのは天皇陛下だけだ」

「それは分かっています」

「ここに『船舶の拿捕および情報を得るために必要最低数の捕虜を除く、すべての捕虜を処分すること』と書かれている限り、われわれは、それに従わなければならない」

「ですから──」

「つまり不要な者は、状況に応じて処分するということだ。これは艦隊司令部も納得しており、篠田司令長官も了承していることだ」

 二人の間に険悪な空気が流れたので、河野が仲を取り持つように言った。

「分かりました。いずれにせよ判断は、五十嵐司令官に委ねるということでよろしいですね」

「それでよい。ほかに質問はあるか」

 皆、黙ったままだ。

「よし、これで閉会とする」

 最後に「口達覚書」が回収され、皆は三々五々、司令官公室を後にした。しかし乾だけは、いかにも納得できないという顔をして席を立とうとしない。

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真実の航跡

伊東潤

一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

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