運命の海峡|1ー2

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

 六月末頃、昼食後にデッキを散歩していると、前方に人だかりができているのに気づいた。

 何事かと近寄っていくと、船員が船の進行方向を指差している。その方角に目を向けると、鮫島にも水平線上に小さな黒い染みのようなものが見えてきた。

「Arriving Hong Kong!」

 イギリス人船員が陽気な声を上げる。

 ──いよいよ着いたか。

 鮫島は楽しみと不安が相半ばした複雑な思いで、前方をにらんでいた。

 午後三時、船は香港の埠頭に横付けにされた。

 ここでシンガポール組とはお別れとなる。双方は別れを惜しみながら健闘を誓い合った。

 結局、香港で船を下りたのは、弁護士六人に通訳五人の十一人だった。

 ──ここが香港か。

 言うまでもなく、鮫島にとって初めての海外渡航になる。

 まず目に入ったのが、香港の象徴であるビクトリア・ピークだ。その山容は険しく、海からは切り立った崖のように見えるが、中腹や山頂の平場部分には西洋風のしようしやな邸宅がちらほらあるので、実際はなだらかなのかもしれない。

 迎えに来ていた中国人の案内役に従って、イギリス軍戦犯部の手配した車に向かう途中、無数のクーリーや人力車夫とおぼしき男たちが近寄ってきた。人や荷物を運ぼうというのだ。彼らは皆、一様に顔色が青黒く、着ているものも同然だ。それを中国人の案内役が怒鳴りつけ、道を空けさせている。

 案内役によって花道のようにできた空間を縫うように行くと、二台のジープが停まっていた。そのうちの一台に寄り掛かるようにして、抜けるように白い肌の若い将校が待っていた。

 それがバレット少佐との出会いだった。

 ほかの弁護士と五人の通訳と共に挨拶すると、バレットは笑みを浮かべて「Welcome to Hong Kong」と言い、手招きで二台の幌付きジープに乗り込むよう指示した。

 鮫島と河合の乗った車の助手席に、バレットが乗り込んできた。そこで互いに自己紹介を済ませると、ジープが走り出した。

 バレット少佐はケント州出身の二十五歳で、日本軍のシンガポール攻略時に捕虜となり、台湾俘虜収容所で長らく虜囚の生活を送ったという。その後、日本の敗戦と同時に解放されたが、日本軍の蛮行を糾弾するため、帰国せずに香港で法学を学び、今は検事助手として検事たちを手伝っているとのことだった。

 バレットは弁護士たちには丁重に接するが、「日本人は嫌いです」とダイレクトに言った。

 河合は嫌悪をあらわにして横を向いたが、鮫島は「あなたの率直な態度に敬意を表します」とりゆうちような英語で答えたので、バレットの方が呆気に取られた。

 香港の空はどんよりと曇り、とても蒸し暑かったが、たまたま降り出したスコールが、涼風を伴ってきた。その風には路上の湿った土砂のにおいと、何かが腐ったような独特の異臭が含まれていた。しかしそれは決して不快なものではなく、異国に来たことを感じさせるものだった。

 ──ここは香港なのだ。

 雨に逃げ惑う中国人たちを見ながら、鮫島は「よくぞこんな遠くに来たものだ」という思いに浸った。

 ビクトリア湾に面した海岸通りを東へ十五分ほど走り、湾仔ワンチヤイと呼ばれる商業地区を抜けると、車は閑静な官庁街兼高級住宅地に差し掛かった。どの建物にも、土塀で囲まれた庭がある。その中の一軒に二台の車は入っていった。

 ──ここが裁判所か。

 そのいかめしい建物の造りから、法廷だとすぐに分かる。

 車寄せでジープから降りると、一行十一人を前にして、バレットが「ここが皆さんの仕事場兼宿舎となる第五、第七戦犯法廷です」と英語で告げた。

 見上げると、「No.5 and No.7 War Criminal Court」と書かれたしんちゆう製の看板が掲げられている。香港に法廷はいくつもあるが、戦犯専門の法廷は、どうやらここだけらしい。

「ここが俺たちの戦場か」

 河合がそう言った時、短機関銃や小銃を肩に掛けた多くの兵が、こちらに向かって走ってきた。鮫島たちが日本人だと気づき、過度に警戒しているように見える。

 憲兵たちは緊張した面持ちで銃を構えようとしている。

 すぐにバレットが双方の間に入った。

「心配ない。彼らは日本人弁護士だ」

 すると憲兵隊長らしき人物が前に出てきた。バレットと同じ少佐の階級章を付けている。

「日本人には、身体検査をする決まりになっている」

「何を言っているんだ。彼らは容疑者でも証人でもない。連合国軍の依頼に応じて来てもらった弁護士たちだ」

「弁護士だろうと、日本人に変わりはない」

 バレットの顔色が変わる。

「彼らは仕事で来た。屈辱的な仕打ちを受ける理由はない」

「駄目だ。日本人は全員身体検査をするよう命じられている」

「それは容疑者に限られることだ。戦犯部から、弁護士たちを丁重に扱うように指示を受けているはずだ」

「そんなことは聞いていない」

 二人の言い合いは次第に激しくなっていく。

 ──致し方ない。

 今回の弁護士団に代表や団長という者はいない。それゆえ船内では、最も英語に堪能な鮫島が交渉役を務めることが多かった。

「バレット少佐、ありがとうございます。われわれは身体検査を受けます」

 その言葉を聞いたバレットの顔には、謝意が表れていた。

「分かりました。指示の不徹底によって不快な思いをさせてしまいますが、お許し下さい」

 弁護士と通訳は一列になると、両手を挙げた。それに対して憲兵たちが荒々しくチェックする。バッグの中身も引っ張り出された。若い兵士はふんどしを広げて不思議そうな顔をしている。

 それを見て河合が笑った時だった。

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この連載について

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真実の航跡

伊東潤

一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

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