◆枝折の言葉が漣野を奮い起こさせた!
部屋に戻って机に向かった。春日(かすが)に渡された原稿を開いて確認する。多くの赤が入っている。しかし、それらは本質的なものではない。問題を潰して修正を重ねても、水準以上の作品にはならない。単に瑕疵が少ない作品になるだけだ。
もっと抜本的にメスを入れなければならない。全てを書き直す気で再構築する必要がある。
漣野(れんの)は紙の束を手に持ち、大量の付箋のついたページをめくる。最大の失敗は、届けたい思いを込めていなかったことだ。技術だけで空疎な言葉を並べていた。
自分が書く意味がどこにあるのか。自分はなぜ書いているのか。
紙の束を裏返して、大幅に改変したプロットを書く。キャラクターを差し替え、話を変えて、あるべき姿に構築し直す。
性別を超えた友情をテーマにした小説。心が繫がることを中心に置いた物語。
日が暮れるまで何枚もメモを書き、話の骨格が定まってきた。床一面にメモを広げ、頭の中を整理していく。いくつもの書き込みの中から、本質的な部分をすくい上げて物語をまとめていく。
夜になり、お腹が減った。一階に下り、冷凍食品を温めて食べる。料理を作る時間が勿体なかった。少しでも早く、執筆に取りかかりたかった。
漣野は二階に戻る。パソコンの前に座り、原稿を開く。一時間ほど作業をして、メールをチェックした。春日から、今日の打ち合わせについてのメールが届いていた。
しばらく悩んだあと、実名の入った電書テロリストの原稿を開く。紙の本が出なくなった顚末を、恨みとともに書いたものだ。
自分は物語を、誰に届けたかったのか。
いったいなにを書きたかったのか。
南雲は言っていた。虚構で現実を凌駕する。それこそが、小説家が小説を書くべき理由だと。
小説に出てくる実在の人物の名前を削る。春日の名前も本文から消え失せる。個人への恨みは、伝えたいことと関係ない。ファイルを上書きして閉じる。この原稿を、世に出すことはないだろう。自分は届けたい言葉を小説に託す。
漣野は原稿に戻る。大量の文字を入力していく。
腕が疲れて肩が痛くなってきた。メールに戻り、春日への返信の文面を考える。
——今、一から書き直しています。次は傑作になります。
漣野は再び原稿に向かう。胸のうちに情熱が蘇っていた。
自分の小説で、他人を振り向かせたい。切れた縁を繫ぎ直したい。そのために読者の心を震わせる作品を作る。
漣野は思いを込めた文字を吐き出していく。虚構の力を信じて、物語を紡ぎだしていく。
◆ミュージカル・チェアーズ
十二月の中旬、今日は品川までやって来ている。普段家に引きこもっているから、たまの外出では気温の変化に驚く。外はもうすっかり冬になっていた。
春日と会い、小説に大なたを振るって以来、少しずつ気持ちが前向きになってきた。
——会って話したいことがある。
今日は南雲(なぐも)に誘われてこの場所を訪れた。ずっとメールを無視していたが、今なら向かい合えると思い返信した。
約束の喫茶店に入り、南雲の姿を探す。店は古くからこの場所にあるのだろう。商談によく使われていそうな落ち着いた雰囲気だ。
深い椅子と丸テーブルが並ぶ店の奥に、南雲ともう一人の男の姿があった。同席の男は、南雲よりわずかに若いようだ。くたびれたスーツを着ており、お世辞にも金があるようには見えなかった。
「南雲さん、こちらの方は?」
同席者がいるとは聞いていなかった。誰なのかと警戒しながら尋ねる。
「霜月(しもつき)さんです」
南雲と霜月は立ち上がる。
「初めまして漣野さん。碧文社の霜月です」
霜月は名刺を出して、にこやかに挨拶した。
出版社の人間。新しい場所から本を出すという話だろうか。
「霜月さんは、私が最後にサラリーマンをしていた時の社長だった人です」
「いやあ、あの時はすみませんね。まさか二度も倒産するとは思いませんでしたよ」
「会社を作るたびに、社名に色を入れているという変わった方で」
「最初は黄竜出版、次は桃花書房、そして今は碧文社。黄竜出版の頃は、バブルでけっこう儲かったんですけどね。今は、しょぼしょぼです」
頭を撫でながら霜月は言う。
「それで南雲さん。こちらの漣野さんとお二人で、出版社を立ち上げるんですよね」
「えっ」
驚いて南雲を見る。
「ええ。印刷資金もないですし、営業の人間もいないですから、電子書籍専門の出版社にする予定です。それで、起業経験が豊富で、最近は電子書籍専門で事業を展開している霜月さんに、アドバイスをいただこうと思い、お呼びしたわけです」
「潰した回数が多いってことは、何度も起業しているわけですからね」
霜月は苦笑したあと、漣野に語りかける。
「漣野さん。南雲さんと組んで会社を作るのは、ありだと思いますよ。この人、私の会社にいた頃は、営業も編集も印刷の手配も全てやって、一人で雑誌を作っていましたから」
「さすがに今同じことはできませんがね」
漣野は、南雲と霜月を見比べる。
「あの、それで、南雲さんと組んで会社とは、どういうことですか」
漣野の問いに、霜月は驚いた顔をする。そして困った表情で南雲を見た。
「お人が悪いですね南雲さん。こういうサプライズは、漣野さんがお気を悪くされますよ」
「正直に伝えたら、来てくれないだろうと思いましたので。こういう重要な話は、電話やメールではなく、きちんと会って話したいじゃないですか」
南雲は飄々とした様子で言う。
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