16 嫉妬
太陽がギラギラとビルの谷間から立ち昇る。摩天楼の群れがグラリと波打ち、蜃気楼がゆっくり近づいてきて、私を狂わせようとしていた。
一九九〇年の八月はセミを焼き殺しそうなほどの猛暑だった。道を歩けば「ぴいひゃらぴいひゃら」という陽気な歌声が聞こえてくる。さもなければ、人類が初めて木星に到着し、いつか発見するはずの人類の祖先に近づいたと伝える脱力ソングが巷を席巻していた。この時代はまだ、老若男女、メジャーからマイナーまでを網羅するヒット曲があった。
一週間前、イラク軍がクウェートに侵攻した。ここから湾岸戦争が勃発する。多国籍軍がイラクを空爆し、日本は多額の国連負担金を払う以外にも、PKO(国際連合平和維持活動)協力法を制定して自衛隊を現地に派遣した。来年の春までテレビは深夜三時以降、放送を自粛するようになる。海外旅行は顰蹙を買うようなものになった。
そんな世間の動向を一向に解さず、俊太郎は家で寝転がりながら、『週プロ』を読んでいた。表紙にはノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチのターザン後藤に、「もうわかったからやめてくれ」と、大きなキャッチが載っていた。俊太郎が沈痛な声を漏らす。
「う~ん、こんな過激なことをやっていたら、大仁田は死んでしまうのでは……」
「絶対に大丈夫」
私は〇・一秒の速さで即返した。
「来月さ、『稲村ジェーン』が公開されるから観に行こうよ」
「断る」
これはもっと速く返した。
私と俊太郎の関係は、表面上は問題なく継続した。俊太郎はたまに短期のバイトで働き、稼いだ金をすべて、浮かれ街あたりで名をあげることに費やした。筋金入りのオカルト好きなため、おかしな占い師を行脚することもあったが、私がとやかく言うことはなかった。「俺の前世って坂本龍馬なんだって。そっか、前世で運を使い果たしちゃったんだな」とほざいても軽くスルーした。
売れっ子音楽ライターとヒモの同居生活。傍から見たらさぞ、おかしなふたりに見えただろう。私がワープロに向かい合っている間、俊太郎は気をつかっているのか、話しかけてくることはない。しかし帰りが遅かったりすると、不機嫌を隠しようもなかった。
打ち合わせと称した飲みから帰宅すると、決まって辛辣な言葉をふたつみっつ投げつけて、下着を剥ぎ取ろうとしてきた。「シャワーを浴びたい」と拒んでも、ヨソでヤッてきただろうと妄執に囚われているためダメだった。「逆ギレには逆ギレをもって制す」が俊太郎のやり口だ。というか、頭が悪いので他にテクニックを知らない。俊太郎が汗まみれの肉襞を剥いて鼻を押し当て、舌で諄いほど検視をするまで、私の疑いは晴れなかった。
あるときなど大変だった。私がインタビューを担当したミュージシャンが表紙を飾ったときのこと。巻頭記事にある前島トリコのクレジットを見せた。一緒に喜んでくれると思いきや、俊太郎はつまらなそうな顔で、ふ~んと答えてそれで終わった。
「俺、腹減った」
あのときの、俊太郎の顔。緑色の目をしていた。
急ごしらえの焼きそばをお代わりした後、俊太郎はこんな説教をしてきた。
「トリコ、おまえのことを思って言うけどさ、勘違いするなよ。そりゃロックミュージシャンはカッコいいよ。聴いているこっちまで、カッコよくなった気がする。しかも連中に会ってインタビューなんかした日にゃ、自分もスターになったような気がするのも無理はないわな。でもな、肝心のおまえはカッコ悪いままだ。部屋でしこしこと原稿を書くしかない、ダサいおまえだ。それを忘れるんじゃないぞ」
私の負けっぱなしのように思われるかもしれないが、俊太郎にひとつ約束させたことがある。
「小娘にだけは手を出さないでよね。中高生とか、ロリコンじゃあるまいし。淫行罪で捕まりたくないでしょ? 私引き取りに行かないからね」
「インコーザイ? 何それ?」
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