レコード会社に金と余裕があった時代

【第27回】憧れのドルフィン・ソングにインタビューで認められ、有頂天になったトリコ。だが代官山での待ち合わせをすっぽかされ、落ち込みを隠せず、トリコは髪をバッサリ切ってしまった。ごまかすためにパンクファッションできめてドルフィン・ソングのライブに向かったが、ライブ後、トリコは伝説のプロデューサー生島忠雄と田村真――ドルフィン・ソング信者には神のような存在に出逢う。

14 ライブ

 六月六日、ドルフィン・ソングのアルバム『フィルム・コメント』は、オリコンチャート十位にランクインした。シングル「無鉄砲とラブアフェア」がドラマの主題歌に使われたことが大きかったようだ。新人バンドとしては上々の滑り出しを切ったと言える。

 同時に東阪名でツアーが行われた。東京の会場は渋谷クラブクアトロ。お披露目公演のチケットは、もちろんソールドアウト。ここにきて業界内外から熱い目が注がれていた。

 絶対に行くもんかと思っていたが、悔しいかな、足は渋谷に向く。

 私がいた時代とこの時代とで、「ある/ない」ネタは多々あるが、クアトロは同じ場所、同じ五階にあり、ステージそばの太くて邪魔な柱もこの頃からだった。

 客の男女比率は一対九。ぎっしりと入れすぎのフロアは、いわゆるオリーブ少女で埋め尽くされている。尋常ではないテンションと人いきれ。この中に十六歳の私もいるはずだが、ハコの中は暗いし、会おうとしても会えるはずがなかった。

 ドルフィン・ソングが活動期間中に行ったライブはたったの十三本。「アマチュアバンドに毛が生えた程度」という評価が定説だ。本来なら伝説となったミュージシャンはライブも神格化されるはずだが、ドルフィン・ソングには適用されなかった。彼らは私がいた時代も、スタジオアルバム向きのバンドとして捉えられていた。

 しかし、当時もいまも、他人が決めた採点に耳を貸す私であるわけがなく、気が付いたら押し合いへし合いの最前線地帯にその身をねじ込んでいた。演奏が巧いとかヘタだとか、どうでもいい。私は生ドルフィンのそばに一ミリでも近づきたかった。

 客電が落ちる。それと同時に屋根が吹っ飛ぶのではないかと思うほどの悲鳴が轟く。オーディエンスがどっと押し寄せる。暗闇のステージに恋と夢二、ライブ用のサポートメンバーの影が動く。一曲目は「無鉄砲とラブアフェア」。イントロのコーラスがピークに達したところでパッと照明がつく。

 恋と夢二がそこに立っていた。

 恋のボーカルに、ギターの夢二がハモる。あまりの神々しさに、私はふたりを憎んでいたことも忘れ、ラブ男とユメっこに混じって金切り声を上げる。それからアンコールも含めて一時間十分。幸福の絶頂の中を駆け抜けていった。

「あれ、どうしたんですか、トリコさんその頭!」

 知り合いの編集者が私を見つけるなり、驚いた声をあげたが、それどころではなかった。

 ライブ終了後、私はフロアにしゃがみ込み、放心状態にあった。多少チビっていたかもしれないが、そんなことはこの際どうでもよかった。

「イメチェンですか? ずいぶんとバッサリやりましたね」

 私は頭に手をやる。

「あ、これ……?」

 言えるわけがない。恋と夢二にすっぽかされ、ヤケクソになった挙げ句、家の風呂場で髪を切ったなんて。  正気を取り戻したときには、鏡の中にトラ刈りのドブスがいた。正視に堪えなかった。

 もはや大人コーデが通用するはずもないので、この日は革ジャン、クラッシュのTシャツ、膝の破けたジーンズ、黒のブーツで揃えた。もちろん髪はギンギンに立たせた。気分は一九九〇年のパンクスだった。

「楽屋、行きますか。でも中指を立てて、デストロイ! って叫ばないで下さいね」

 冗談に決まっているのだが、私にはまるで竜ちゃんの「押すなよ」というか、誘い水のように感じた。腕を引っ張って立たせてもらい、四階に降りていった。

 楽屋前は長蛇の列だった。最後尾についた私は思わず目を見開いた。行列の中に生島プロデューサーの姿を見つけたからだ。

 生島忠雄—名立たるSSWを発掘し、世に送り出した名プロデューサーだ。レコード制作だけでなく、アーティストのイメージ作り、プロモーションにも全面的に携わった。日本の音楽業界にマーケティング戦略を持ち込んだのは生島が嚆矢だと言われる。そのミュージシャンを売り込むためには、どのようなアプローチと方法論が適しているか、「ポップの仕掛け人」としても遺憾なく才能を発揮してきた。  ドルフィン・ソングはメンバーが五人のアマチュア時代、バンド名は異なっていた。「プロとしてデビューする際に変えたほうがいい」と勧めたのは生島だ。

 この時期、生島のドルフィン・ソングにかける情熱は相当なもので、ファーストアルバムのイニシャル(初回出荷枚数)が三千枚にもかかわらず、二千万円以上かけてPVを制作した。レコード会社に金と余裕があった時代とはいえ、生島の意気込みがわかるというものだ。

 年齢はこのとき四十代半ばのはずだが、意志のある眉、高い鼻梁、削げた頬は、所謂ギョーカイ人とは真逆で、哲学者を思わせる風貌に、私はひと目で胸を射抜かれたような気がした。しかし、驚くのはまだ早かった。

 生島の隣で彼と立ち話をしていたのは、なんと田村真だった。ひえええと、総毛立つ。

 田村真は自身もミュージシャンとしてアルバムを数枚発表しているが、何といっても有名なのはドルフィン・ソングのサウンドプロデューサーとしての仕事だ。彼は、「僕は何もしていない。キャリアのなかった恋と夢二にレコーディングのやり方を教えただけ」と謙遜するが、その後手がけたバンドのほとんどを武道館クラスのアーティストに成長させた実績を持つ。田村なしでは『フィルム・コメント』、次作のラストアルバム『バンザイ・タワーリング』は生まれなかった。田村真こそ「第三のドルフィン・ソング」だった。

 もう勘弁してくれ、許してくれと思う。ドルフィン・ソング信者にとってほとんど神が、すぐ目の前に居並んでいるのだ。壁に寄りかかっていなかったら、この太い腰が抜けて床に根を生やしていたかもしれない。

「いやあ、久し振り」

 震えを抑えていたところに、サイケデリックな色合いのシャツを着た小柄な男が、生島と田村の間に入ってきた。春東三企夫、アートディレクターだ。私はとうとうあきらめて、尻もちをついた。

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ドルフィン・ソングを救え!

樋口毅宏

林真理子さん、燃え殻さんも才能を認めた著者の会心作を限定公開!  2019年、45歳独身で人生に絶望したフリーターのトリコ。睡眠薬で自殺をはかって目覚めたのは、1989年の渋谷だった! トリコに幸せは訪れるのか?  「めちゃくち...もっと読む

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