写真は言葉じゃ語れない?
ファースト写真集『生きている』が、1990年代を代表する写真集として人気を博し、日本写真の中心に躍り出たのが佐内正史だった。現在は自身の写真集レーベル“対照”から、続々と作品を発表している。
ただし、その写真がわかりやすいかといえば、そうでもない。何でもない道端を切り取ったり、灰皿をぽつりと撮ったりする写真は、観る者の目を無性に惹きつけると同時に、人にこうも思わせる。「さっぱり意味がわからない」と。
佐内正史『生きている』より
本人が自作をわかりやすく解説するということも、あまりない。ひょっとすると、言葉なんかじゃ写真のことはどうせ語れないんだよ、と思っている?
「いや、そこまでは思わないけど。頭に浮かんだことを、なるべくちゃんと言えるようにしたいとは思ってますよ。ただ、あまり考えたりせずに、パッと言ったほうがいいかな。そのほうが写真的な感じがする。自分の写真について話すことに意味があるかどうかはちょっとわからないけど、そこはまあ声の質でフォローしようかな」
と、集まったファンの前で話を始める。
今回は、観客として話を聴きに来たという高橋恭司が、飛び入りでともにマイクを持ってくれた。高橋は1990年代初頭に登場し、大判カメラで身近な光景を切り取る作風が、日本の写真界に新風を吹き込んだ写真家。
佐内がデビュー直後から慕ってきた先輩の登場によって、いつもより滑らかに舌が回りそうな気配あり。そこで、こちらがぜひ聞きたいと思っていたことを、ここで質問してみる。佐内正史の写真は、なぜこれほど観る側の共感を呼ぶのか。その秘密を、本人の口から聞きたい。
この問いかけには、会のナビゲーターをしている僕の永年の思いも少し混ざる。15年ほど前のある日のこと。渋谷の書店にふらりと立ち寄ると、ビジュアル本のコーナーで、レコードジャケットみたいな体裁の写真集を見つけた。佐内の『生きている』だった。何気なく手にとって、すぐ釘付けになった。ページを繰るごとに、脳に直接刺激が飛び込んでくる。言葉なんていらないとはこういうことか。
ひと通り観終えるころ、「そう、そう、世界は僕にもこう見える」と強く感じていた。心が動いた。写真を本格的に好きになる、これがきっかけになった。
そんな体験があったから、ぜひ「共感」の正体を知りたいのだ。なぜ観る側に強い感情を呼び起こすのか。訊ねると、佐内はこう答えた。
「それは気持ちとか気分の部分の話なんじゃない? “文学方面の共感”のしかただよね。“写真自体に共感”するって、じつはすごく難しいことでさ。そこがすり替わることはよくある」
ああ。たしかに。“文学方面の共感”とは、写っている風景やモノに自分の思いを託したりするようなこと。写っているものの「意味」に、自分の気持ちが共振する状態を指すんだろう。
その通りかもしれない。対して“写真自体に共感”するとは、形や色や角度、そういうものに「これ、わかる、わかる!」と直感すること。たしかにそれはすごく難しそう。
「写真集を見て共感したっていうのは、絞りとか構成とか、そういうところに共感したわけじゃなかったわけでしょ?写真を撮る側からすれば、あ、ガードレールがあるとか、こっちは植木だとか、そういうことはいちいち考えていない」
そう、まずは感情の部分で共感していた。もちろん無意識には、画面の鮮明さや構成といった、写真それ自体のことにも惹きつけられていたのだろうけど。
「たとえば電柱とか撮っている写真があるけど、それはヨコ位置で1枚撮って、タテ位置でも1枚撮って、その2枚の写真から本に載せるのを選んだりしている。これはタテかな、それともヨコかなってやっているときって、べつに電柱に共感したりしていない。そういうことじゃなくて、撮っているときに考えるのは、タテ位置の真ん中に電柱を置こうとか、長いものを横にして撮ったらどうかなってこと。
写真を見るときもそうだよ。あ、これを画面の真ん中にして撮ったんだなとか、あ、ちょっと横にずらしたんだとか、そういうことに目がいく。撮っている側の“覚悟”みたいなものを見ているってことかな。前に恭司さんも言っていたでしょう。タテに長いものはタテ位置で撮らないとだめだよって」
「意味」よりも「覚悟」に目がいく
写真家ならではの不思議なものの見方が、どうやらあるらしい。そんなふうに世界を見ている人たちがいるものなのか、そう驚いてしまうようなやりとりが、ふたりの写真家のあいだでしばし飛び交う。
佐内正史(中央)と高橋恭司(右)
高橋「家で横たわって柱とか見ていると、すごく高くて長いものに見える。そのあと立ち上がって同じ柱を見ると、そんなに高く感じない。横たわると目がタテに並ぶ、つまりカメラでいえばタテ位置になるわけでしょう。ということは、タテ長のものをタテ位置で撮ると、長さや高さは強調されるのかもしれない」
佐内「冷蔵庫もそうだよ。基本、タテ長で。けっこう高いんだよ、あれ。それに、電柱よりも四角いじゃないですか。タテ長の四角い画角だなと思う。ちょっと病気かな、そんな見方ばっかりするのって。でも、旅館の部屋に入って最初に目にするものって、テーブルの四角ですよね。あと、パチンコ店に行っても、パチンコ台が四角いなって真っ先に思う」
高橋「旅館はちゃぶ台みたいな円卓のときもあるじゃない?」
佐内「丸みもいいですよね。タイヤとか? 俺の写真ってちょっと硬めじゃないですか。だからなるべく丸みのあるものは入れていきたいなと思ってる。ちょっと円の端を切ったりはしますけどね」
高橋「そういえば『ラレー』は、ドンブリが丸いね。丸を、ちょっと斜めから撮ってる」
佐内「あれは、四角いテーブルのなかに丸っていう形。ラーメン屋やカレー屋のカウンターだけで成立している世界」
『ラレー』とは、2012年に佐内が刊行した写真集。食べ歩いて気に入ったラーメンとカレーライスをひたすら撮って並べている。ラーメンとカレーが合わさっているから、「ラレー」である。
なぜラーメンとカレーなのか。それを延々と並べたものがなぜ作品として成立するのか。いろんな疑問が湧き上がるけれど、そうした「意味」のことは二の次。佐内本人としては、「四角のなかに丸」という形態のことのほうが大事なのだ。
佐内「ラーメンもカレーも、正面から撮りたい、って覚悟があったんですよ。あれは覚悟から入っていった」
高橋「アティチュードってことだね」
佐内「正面からいって、ちょっとずらしてみたりとかもするけど」
高橋「覚悟を悟られたくないってことね」
佐内「そう。写真を見ればだいたいわかりますよ。覚悟があるかどうかって」
覚悟がある写真。それはいったいどういうものだろう。佐内正史や高橋恭司の写真がそれだ、といえばそれまでだけど、もう少し指針があるとつかみやすい気がする。
佐内「“止める”感じが強いのは、やっぱりタテ位置の写真。遺影なんかタテ位置だし、ポートレートはけっこうタテ位置が多いでしょう。ヨコ位置にすると、背景とか思い入れみたいなものが入ってくる。写真って、瞬間を止めるし、息が止まる感じがする。そこが覚悟ってことと関係あるかな。」
ふむ。覚悟というのは、ある瞬間を選び、その瞬間を写真によって止めてしまうことへの覚悟といったことだろうか。
佐内「そう……。それが写真家ってことですよ。写真やろうって決めて、二度と帰らないぞって静岡から東京に出てきたからね。そういう覚悟を決めているんだから、そりゃタテ位置に決まってるじゃん!」
世界の見方が、根本から異なる。それが写真家と呼ばれる人たちなのかもしれない。彼らの目に、いったい世界はどう映っているのか。さらに知りたくなってくる——。