運命の海峡|1ー1

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

 昭和二十二年(一九四七)六月、復員庁第二復員局(旧海軍省)の依頼を受けたさめじましようろうは、大阪弁護士会の九人の仲間と共に長途の旅に就いた。

 仕事の内容は英軍管轄下の戦犯裁判の被告人弁護と聞かされたが、先に出張している東京弁護士会の知人から入ってきた情報では、公平な裁きなど望むべくもなく、被告には形式的に弁護人が付けられるだけだという。

 その主たる仕事は、無罪を勝ち取ることや量刑を軽減することではなく、被告に寄り添い、処刑や懲役を納得させることらしい。

 そうしたことから、ベテランの弁護士たちは病気や公判中の仕事があるという理由で軒並み断ってきた。そのため、ようやく十人がそろったのは出発直前だった。しかも皆、二十代から三十代の若者ばかりで、全員が英語に堪能というわけでもない。それでも弁護士十人に、通訳が十一人も付くという態勢を取ってくれるというので、「それなら」と言って引き受ける者もいた。

 二十七歳で独身の上、英語に堪能だったこともあり、鮫島はちゆうちよなく引き受けることにした。もつとも鮫島にとって日本を離れられるなら、どんな仕事でもよかった。

 出発直前の説明会では様々な質問や懸念が飛び交ったが、大阪弁護士会の会長をはじめとした要職にある人たちも何一つ詳しいことを知らされていないのか、「詳細は現地で聞いてくれ」の一点張りだった。

 ただ最後に一言、「皆、無駄な努力になるかもしれないが、何としても死刑を避けるよう頑張ってくれ。たとえ無期懲役でも、日本が国家主権を取り戻せば外交努力で量刑を軽減できるので、被告たちは生涯を刑務所で過ごすことにはならない」と付け加えた。

 また、今回の弁護士団は戦後になってから初の海外渡航者となり、その品行次第で、日本人全般の海外渡航制限が緩和されると聞かされたので、責任の重さを痛感させられた。

 大阪弁護士会の任地は、イギリスの管轄するシンガポールと香港の二カ所だという。もちろん個々の弁護士の希望は一切考慮されず、どちらかの任地が一方的に割り当てられた。

 鮫島はどちらでもよかったが、香港行きとなった。どうせなら日本から遠いシンガポールの方がよいと思ったが、香港なら香港で構わない。

 シンガポール行きとなった仲間の中には、「東洋の真珠と呼ばれる香港に行きたかった」と愚痴を言う者もいた。というのも狭い市街地を一歩出れば、ジャングルが広がっているだけのシンガポールに比べ、香港は人口百八十万の大都市だからだ。

 六月十九日、大阪から進駐軍特別列車でくれ港まで行った弁護士と通訳一行二十一人は、そこで船を待つことになったが、同じ船に戦犯容疑者たちが乗せられると聞かされ、旅行気分が吹き飛んだ。

 桟橋に着くと容疑者たちがいた。彼らは優に五十名はおり、全員手錠をはめられていた。その顔は前途の不安からか一様に暗く、船に乗る際にも、鮫島たち弁護士にいちべつもくれなかった。顔を上げたり、目を合わせたりすると殴りつけてくるという連合国軍兵士たちにおびえているのだ。

 現に兵士たちは銃剣の先で容疑者の尻をつついたり、蹴り上げたりしながら笑い声を上げている。それとは対照的に、容疑者たちは羊のようにおとなしく船に乗せられていく。

 これが、その武勇を世界に誇った帝国軍人の一団かと思うと、敗戦という二文字の重みが、今更ながらのしかかってくる。

 今回の戦争はこれまでの戦争とは違い、敗戦国は富も名誉もすべてを取り上げられ、最低国のレッテルを貼られて地獄の底に落とされた。負けたらそういう目に遭うと分かっていたら、当時の内閣や軍部も開戦に慎重になっただろう。しかしその反面、日本が地獄を見ることで、戦争を始めた者への見せしめになることも確かなのだ。

 そして連合国軍兵士の多くは、戦争犯罪者をみじめな目に遭わせることで、その犯罪を繰り返させないという大義を掲げている気になっているに違いない。

 ──だが彼らは容疑者であり、まだ罪人ではない。

 そうは言っても、法律にかかわる者以外にそれを理解するのは難しい。しかも、どれだけ容疑者を痛めつけても、連合国軍兵士には何の罰も科されないのだ。

 ──これが戦勝国と敗戦国の現実なのだ。

 鮫島は、初めから厳しい現実を突き付けられた思いがした。

 船は一万総トンクラスの商船で、弁護士と通訳は五人一部屋の船室をあてがわれた。イギリス海軍の水兵たちと同等の扱いなので、文句を言う筋合いはない。

 一方、容疑者たちは窓一つない貨物用の船倉に閉じ込められ、酷暑の太平洋を行くことになる。

 船旅は快適とはいかないまでも不快ではない。弁護士たちは自由に散歩することが許されていたし、船上でのクリケットにも参加できた。水兵たちは、弁護士の一団には礼を尽くすよう船長から指示されているのか、様々な便宜を図ってくれた。

 鮫島はイギリス総領事館で四年も働いた経験があるので、慣れてくると積極的に彼らに話し掛けた。英会話ができると知ると、彼らはフレンドリーに接してくれた。そこから分かったのは、彼らは罪のない日本人に対しては、人種差別を禁止されているらしいということだ。

 それが連合国、とくに米国政府の方針なのは明らかだった。彼らの次なる敵はソ連であり、日本を早急に復興させて友好関係を築き、太平洋の防波堤に育てたいのだ。

 それゆえ戦争直後の過酷な対応が噓のように、このところ政治から経済まで、日本の自主性を重んじることが多くなってきている。

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この連載について

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真実の航跡

伊東潤

一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

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