キャリー 
私をばかにした人はもれなく死にます

ホラー小説の王・スティーブン・キングの傑作を、ブライアン・デ・パルマ監督が映像化した『キャリー』。このホラー映画の傑作について、伊藤聡さんは作中で重要なファクターとなるプロムを軸にして、学園映画としての側面についても綴ります。また、2013年には新たに映像化された『キャリー』も公開予定のようですので、そちらも楽しみですね!

だいたいあの、プロムってやつは何なんだ。あれほど理不尽な行事はまたとない。高校が舞台のアメリカ映画によく出てくる、男女がカップルになって参加しなくてはならない、学校主催のダンスパーティーの場面を目にするたび、なぜ海外にはこんなにでたらめな催しがあるのかと頭が痛くなってくるのである。

なぜプロムなどという風習が生まれたのか、その理由や目的がよくわからないのもアメリカの不可解なところである。誰しも一度は映画で見たことがあるはずだ。主にアメリカやカナダの高校で行われる、学年の最後に、フォーマルに着飾った男女生徒が行うあのイベント。自分と一緒にプロムへ行ってくれる異性を見つけなければならず、当日は車で相手を迎えに行ったりする例のあれだ。

それにしても、北米在住の青年たちは、こんな仕打ちに不平も言わず、ただじっと耐えているだけなのだろうか。そろそろ、プロム打ち壊しやプロム一揆などの騒乱が起こってもいいのではないか。プロムに参加するくらいなら、数日留置所に入れられている方がまだましである。どうがんばっても、おしゃれをして学校の体育館で異性と踊るという主旨の会合に、全力で取り組めそうにない。プロムのない国に生まれて本当によかったです。

プロムが怖ろしいのは、何よりそれが学校主催である点だ。つまりは学校という公的な場所から伝えられるメッセージとして、「男女はみずからの性的魅力を最大限に発揮して、異性の獲得につとめるべし」と通達されているわけである。こうした、プロムのあまりに一方的すぎる主旨が暴力的なのだ。もうちょっと手かげんしてもらえないだろうか。相手は高校生、まだまだ子どもなのだ。ほんらい個人差があって当然の、生徒ごとの性的魅力や成熟度が、あたかも本人の責任であるかのように突きつけられるのが残酷だし、それをパブリックな学校行事として行うにいたっては、もはや狼藉のたぐいだとしか言えない。プロム的な社交ゲームから脱落した生徒の多くは、自己否定の感覚を持たざるをえないだろう。プロムに価値を見いだせない子どもまでが参加を要請されるなんて、そんな乱暴な法があるものか。

また、もっとも見栄えのいいカップルにプロムキング、プロムクイーンなどと称号を与える、投票で1位を決めるといった序列もくだらない。どうして、普通に踊って会を終われないのか。男女交際に順番をつける意味がてんでわからない。しょせんプロムキングなどといっても、髪がしゅっとしてるとか、やや顔がかわいらしくて、少し値の張るスニーカーを履いてるとか、たかが知れているのであって、その者の本質的な部分になどまったく触れていない。それにもかかわらず、あたかもその順列に何らかの根拠があるかのようにおもい込ませる価値観が、きゅうくつで耐えがたいのだ。だいたい、男女の関係を公衆の面前でおおっぴらに喧伝するなんて、みっともなくて、僕はいやだ。

このようにプロムへ理不尽を感じるのは、アメリカから遠くはなれた島国で、誰に頼まれたわけでもなくアメリカの学園映画をせっせと見続けてきた僕だけではない。プロムが苦手な人たちは、当事者であるアメリカ人のなかにも当然いる。学生時代に疎外された経験を持つ者たちは、やはり傷ついていたのだ。ゆえに米映画におけるプロムは、主に「学生時代の苦い記憶」という描かれ方をしてきた。なぜなら、大人になってから映画を撮るような連中はたいてい学生時代に鬱屈していると相場が決まっていて、彼らは10代にプロムで受けた屈辱や無力感を忘れることなく、それから数十年後に作品としてその怒りを昇華させるためである。そもそも、若い時期に鬱屈していなかったら誰が映画など撮るだろうか。ことほどさように、過去へしつこく怨念を抱きつづけるのが、映画を撮ったり小説を書いたりする手合いであり、ひとたび彼らに恨まれると、後々こうして手の込んだ反撃が待っているので注意が必要である。

前述したように、米学園映画のプロムはおおむね、疎外された者たちの視点から描かれていくこととなる。例をあげればきりがない。たとえば、学校では変わり者扱いの男子生徒ふたりが、あの手この手で女の子をプロムへ誘う『バス男』(‘04)。見ためのぱっとしない、美術の好きな少女がストーリーの中心となる『シーズ・オール・ザット』(’99)。まじめだけが取り柄の生徒会長の立場から見た学園生活が描写される『ガール・ネクスト・ドア』(’04)。オタクグループに所属する主人公の少年が、転校生の美しい少女とプロムへ出かけることとなる『メリーに首ったけ』(’98)。これらはほんの一例であるが、どの作品でも、プロムが重要なモチーフとして登場する点で共通している。それらの描写からは、「ぱっとしない連中」「その他大勢」でしかなかった生徒たちの内面、彼らの忸怩たる思いが見て取れる。

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こうしたプロム映画のなかでも、ブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』('76)の攻撃的な姿勢は突出している。何しろ、周囲の心ない仕打ちに傷ついた主人公の少女キャリーは、超能力を用いてプロム会場を炎で包み、最終的には参加者をかたっぱしから殺してしまうのだ。プロムへの怒りがいかほどかを思い知らされる作品である。抑圧的な母親の元で育てられたキャリーは、他の生徒たちといくぶんテンポが合わない部分はあるかも知れない。未熟な高校生にとっては、そうした小さな差異が耐えがたいのだろう。彼女は嫌がらせの標的となってしまう。

劇中、周りからの偏見に苦しみ、級友からひどい嫌がらせを受けつづけたキャリーが怒りを爆発させるクライマックスは、観客にただならぬカタルシスを与える有名なシーンである。もっと壊せ、すべてを焼き尽くせとスクリーンに向かって拳を突き上げたくなる爽快さに満ちている。「私をばかにした人はもれなく死にます」といわんばかりにかっと見開かれた、キャリーのするどい目線。この場面のもたらす快楽に抗える観客はいないはずである。

本作が、公開後何十年たっても言及されつづける定番となった、その最大の理由は、ホラーの体裁を取りながら、後のジョン・ヒューズ作品に通じる学園映画の要素を先取りしている点にあるだろう。運動部や見た目のいい生徒が幅をきかせ、おとなしく地味な生徒が見下されるといった人間関係の構図は、その後の学園映画における主要モチーフとなった。

『キャリー』の本質は、超能力やホラーなどの要素よりもむしろ、学園内の人間関係を描くその手つきにある。学園映画はつねに、ジョック(運動部)、クイーンビー(チアリーダー、美女)、ブレイン(ガリ勉)、ナード(オタク)といった学園内の階層を取り上げるが、映画版『キャリー』は、かかるティーンエイジャー独特の人間関係に敏感だったスティーヴン・キングの原作をていねいに映像化している。学園内の階層は、舞台をアメリカに限定しない普遍的なテーマだ。日本の映画ファンもまた、日本の高校における学園内の階層を題材とした『桐島、部活やめるってよ』(’12)に心を抉られ、とりつかれたようにその感想を語りつづけてしまう。われわれはもはや、学園映画から逃れることができないのだ。

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およそ120分の祝祭 最新映画レビュー

伊藤聡

誰しもが名前は知っているようなメジャーな映画について、その意外な一面や思わぬ楽しみ方を綴る「およそ120分の祝祭」。ポップコーンへ手をのばしながらスクリーンに目をこらす――そんな幸福な気分で味わってほしい、ブロガーの伊藤聡さんによる連...もっと読む

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コメント

yuzuko1736 これこれ、昼間友人に話したやつ ほんとこの人の文章好き 魔女宅のやつとかもおすすめ 2年以上前 replyretweetfavorite

endingendless プロムの話、面白い→  約5年前 replyretweetfavorite

campintheair 1時間だけ無料で全部読めちゃうので、この機会にぜひ! 映画『 【07/16 22:56まで無料 】 約5年前 replyretweetfavorite

cafebleunet 全面的に同意です。プロム怖い…と思ったもん。アメリカ人でなくてよかったって本気で思ってたもん。 約5年前 replyretweetfavorite