13 クラウディー
その日、突然の電話で起こされた。朝まで原稿を書いて、編集部にFAXを送った後、力尽きてベッドに倒れ込んだ。私より先に枕を抱きしめていたはずの俊太郎は、こんこんと眠り続けている。
「この人の取り柄って何だろう? 無芸大食以外に」と思いつつ、ベッドから這い出て電話を取った。 「もしもし、僕だけど。トリコさんのお宅でしょうか」
すぐに誰かわかった。
「夢二さん……三沢夢二」
「正解」
受話器の向こうから、まるで福音のような声が響いて、私の深いところを揺さぶった。
「編集部からこの番号を聞きました。こないだはありがとう。いい記事だったね」
私がインタビューしたページは当初の予定より増え、好評を博していた。読者からのアンケートはがきも人気の上位にあると聞いた。別の音楽雑誌の編集者も、「あれ読みましたよ。ドルフィン・ソングのふたりの音楽の知識に、トリコさんが負けず劣らず詳しくてたまげました。いやー、わかっていましたけど、やっぱりトリコさんって凄いライターですね。この世代の湯川れい子って呼んでもいいですか?」と絶賛してくれた。
「あのキャッチが笑った。中身はもの凄くディープなアルバム解説なのに、〝僕たちを、フィンドルちゃんと呼んでくれ〟って」
「あれは私が付けたんじゃなくて、編集部サイドが決めたことで」
「わかってる」
夢二は本当に可笑しいようで、顔は見えなくても目を細めている様子が十分に伝わってきた。
「でさ、電話をしたのは他でもなくて。お願いがあるんだけど。今後さ、あの雑誌もそうだけど、他の媒体でもシリアスな音楽の話をするときは、トリコさんが記事を書いてくれないかな」
「え、え、え」
この時代、ミュージシャンが自分の専属ライターを付けるのは珍しいことではなかった。自分たちのことをしっかりと把握し、飛ばしすぎたジョークの中からNGワードの取捨選択をし、きっちり記事にする。私がいた時代でも、大物アーティストほどライターを抱えていた。
「いいんですか。私なんかで」
「もちろん。恋と話し合ったんだけど、あいつもトリコさんがいいなって言ってたよ」
私は頬を抓るという、ベタなことをやってみる。夢ではない。まだ夢の中にいるわけではない。
「引き受けてくれる? よかったー。トリコさん超多忙っていうからさ、僕が直々に電話させてもらったんだ。断られたらこっちで三つ指ついてでも——」
「私に拒否権はないです!」
夢二は笑っていた。邪気のない、素敵な声だった。
「さっそくだけどさ、今夜時間あるかな。代官山詳しい? 八時に駅待ち合わせでいいかな? 音楽の話とかしたいな。今後のこともあるし」
電話は切れた。ツーツーという機械音が鼓膜を震わせる。鏡を見たら、抓りすぎて頬が赤くなっていた。おまえはマンガの登場人物かとツッこむことも忘れてしまう。メールがなくて不便だと感じるのはしょっちゅうだが、人と人の声が触れ合える電話の有難みを知った。
夢見心地で寝室に戻ると、俊太郎が眠そうな、だけど探りを入れるような声で訊いてくる。
「電話、誰から? ずいぶん楽しそうだったけど」
私は満面の笑みで返した。
「イタ電」
俊太郎の顔を踏んづけてからベッドに潜った。
原稿を早めに切り上げ、代官山へと急いだ。
ダークネイビーのワンピと、アクセサリーでフェミニンを出す。なだらかなラウンドフォルムのサングラスでプチセレブを演出し、足元はビジューをあしらったパンプスで可愛く。そしてこんな日のために奮発したシャネルのバッグ。
ばっちりだ。どこに出ても恥ずかしくない大人コーデ。恋も夢二も、ミーハーギャルに飽きているだろうから、大人の女性の魅力で勝負する。
駅の改札口で待ちながら、この身に降り掛かった幸運を信じられずにいた。
これから恋と夢二が私を迎えにやってくる。ドルフィン・ソングに気付いた人たちでパニックにならないか、余計なことを心配してしまう。大丈夫、主題歌に使われたドラマは始まったけど、アルバムが出るのは今週だ。ふたりの顔はそれほど知られていない。
しかし、有頂天になりすぎてはならない。一筋繩ではいかないふたりに、どうやってさらに喰い込んでいくか。大切なのは、むしろこれからだ。
雑誌で読んだ彼らの生い立ちを「占い」と称して言い当て、信用させていくのはどうだろう? やめとこう。胡散臭がられるだけだ。こんな私だが、スピリチュアルを信じていない。
本当は今度こそ会ったら、「夢二、あなたは恋を殺すのよ!」と叫びたい。だけど薄気味悪がられて、遠ざけられたらどうしよう。もっともっと仲良くなって、信用されてから打ち明けたい。いや、それは口実で、私は一分でも多く、ドルフィン・ソングのふたりといられる時間が欲しかった。
私は大それた夢を見る。カエルでもお姫様の夢を見たっていいじゃないか。