10月28日」は大地震の特異日!?

国民の半数が被災者になる可能性がある南海トラフ大地震。それは「来るかもしれない」のではなくて、「必ず来る」。関東大震災の火災、阪神・淡路大震災の家屋倒壊、東日本大震災の津波。その三つを同時に経験する可能性がある。首都圏を襲う大地震も懸念される。
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三陸地震と伊達政宗の復興事業

 ここまで、日本の歴史の動乱と災害について見てきました。日本がこれほど地震だらけだと知ると、もうどうしようもないと諦めてしまうかもしれません。確かに、日本で地震に遭わないようにするには「神頼み」の面もあります。ですが、私たちは度重なる地震を見事に乗り越えてきたことを忘れてはいけません。
 私は工学系の研究者ですが、歴史は好きですし、各地の神社を巡って「お守り」を買うことなどもしています。信仰心からだけではなく、日本の神社や礼拝所が地震、津波の教訓をもとに建てられ、その大切な伝承役となっていると思うからなのです。
 仙台市内には浪分神社(若林区)や浪切不動堂(宮城野区)といった場所があります。いかにも津波と関係のありそうな名前であることがお分かりでしょう。ここから先は津波を遡上させないぞと、不動像が海をにらみつけている姿を想像してみてください。津波の後にタコのくっついた如来が見つかったとの言い伝えがある淵上蛸薬師堂(太白区)なども有名です。
 これらが主に伝えるのは1611年の慶長三陸地震による津波。天正地震から25年後、慶長伏見地震から15年後、慶長大地震から6年後のこと。関ヶ原の戦いを経て江戸時代に入り、仙台藩は伊達政宗が治めていました。
 この地震は、三陸沖を中心に北海道沖の震源域を含む超巨大地震だったとも考えられています。地震の呼称を奥州地震とすべきだとの議論もあります。いずれにせよ、大津波が北海道、三陸や仙台を襲いました。

 地震が発生したのは新暦の12月2日、旧暦では10月28日になります。ちなみに新暦の10月28日には1707年に宝永地震が、1891年には濃尾地震が起こっています。前者は有史以来最大の南海トラフ地震、後者は陸域で起きた最大級の活断層地震。「10・28」というのは地震の特異日なのかもしれません。東日本大震災は、慶長の地震津波からちょうど400年後に同じ被災地を襲ったことになります。
 伊達政宗は地震発生時、仙台城(青葉城)にいたようです。仙台城は地震の10年程前、政宗が青葉山に縄張りをして築いた高台の城。よって政宗自身は被害を受けませんでしたが、仙台藩の沿岸部では1783人と牛馬85頭が溺死したと記録されています。
 地震に衝撃を受けた政宗は、津波を意識した復興事業に力を入れました。政宗の諡(おくりな)は「貞山」で、その名が冠されたのが「貞山堀」。阿武隈川の河口と名取川河口、松島湾(塩竈)を海岸に平行して結ぶ運河で、震災後の復興事業の一つだったと言えます。周辺のクロマツの防潮林も含め、津波の勢いを弱める効果も狙ったのでしょう。
 津波で浸水した場所は塩田にして、製塩業を復興事業として進めました。塩釜(塩竈)をはじめ「塩」や「釜」がつく地名が仙台の沿岸部に多くあります。

 塩田開発に合わせて新田開発も進めたことで、住民が沿岸部に戻ってしまった面もあります。しかし高台を中心とした基本的な街づくりは、その後の仙台の発展と400年後の東日本大震災の被害軽減につながったはずです。あらためて独眼竜の眼力のすごさを感じます。
 全国五街道の一つ、奥州街道は津波の教訓から、仙台以北は見事に津波被災地を避けて、内陸部を通っています。そのおかげで、東北の主要都市は東日本大震災の被害を軽減しました。
 後に、奥州街道に沿ってつくられたのが国道4号や東北自動車道、東北新幹線。東日本大震災では、この南北の軸から櫛の歯状に沿岸部へと道路をつなげる「くしの歯作戦」によって、早期に緊急ルートが開かれました。また、奥州街道沿いの盛岡市や遠野市などの内陸の都市は被害が少なかったため、沿岸部への救援役にもなりました。

貞観地震と東日本大震災

 東日本大震災と類似した大地震は、869年の貞観地震でした。岩手、宮城、福島の東北三県を含む「陸奥国」を揺らした巨大地震として、平安時代の歴史書『日本三代実録』に詳しく記録されています。
「(貞観十一年五月)廿六日癸未。陸奥国地大震動。(中略)海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝洄漲長。忽至城下。去海数十百里。浩々不弁其涯涘。原野道路。惣為滄溟。乗船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉」
 現代語訳すると、「26日に陸奥国で大きな地震があった。(中略)海では雷のような大きな音がして、ものすごい波が来て陸に上った。その波は川をさかのぼってたちまち城下まで来た。海から数十百里の間は広々した海となり、その果ては分からなくなった。原や野や道はすべて青海原となった。人々は船に乗り込む間がなく、山に上ることもできなかった。溺死者は千人ほどとなった。人々の財産や稲の苗は流されてほとんど残らなかった」。
 東日本大震災の津波の光景とそっくりではないでしょうか。
 この「城下」とは多賀城(宮城県多賀城市)。東日本大震災でも多賀城市内は広く浸水、人口約6万人のうち188人が亡くなっています。
 貞観地震当時の多賀城は蝦夷に対峙する北の砦で、朝鮮に対峙する大宰府と共に最重要拠点の一つでした。このため遠く離れた東北での震災の様子が京まで伝わり、国史にまで記述されたのでしょう。このメッセージを知っていれば、東日本大震災は決して想定外の災害とは言えなかったことが分かります。

 貞観地震の被災地を歌枕にした和歌も詠まれています。
「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは」
 これは後拾遺和歌集にある清少納言の父親、清原元輔の歌。
「わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし」
 千載和歌集にある二条院讃岐の歌です。
 いずれも小倉百人一首の中にあり、恋の歌と言われていました。しかし、「末の松山」も「沖の石」も多賀城市に実在しています。歌に詠まれているのが多賀城市のものだったとして、「末の松山」は津波が越さなかった、「沖の石」は乾く間もなく水に浸かったと解釈したら……。貞観地震の教訓と受け止められますね。実際に東日本大震災では「沖の石」は津波に浸かり、「末の松山」には津波は到達していませんでした。

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次の震災について本当のことを話してみよう。

福和伸夫

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コメント

14pumRVfEWyyORd 後世に伝え遺すことが 大事なことだとわかります。 8ヶ月前 replyretweetfavorite

WtmFc 百人一首が伝える津波被害の実態 https://t.co/ee4QQwSRkQ 「歴史に学ぶ」ことは大事だなぁ 勉強になりました。 8ヶ月前 replyretweetfavorite

nao8724 百人一首が伝える津波被害の実態 9ヶ月前 replyretweetfavorite

kotnetwork 百人一首が伝える津波被害の実態 https://t.co/ehMi7MNaaA #スマートニュース 9ヶ月前 replyretweetfavorite