いだてん』第8回「敵は幾万」〜「負けたら切腹」の文化とは

脚本・宮藤官九郎、音楽・大友良英、チーフ演出・井上剛と、伝説の朝ドラ「あまちゃん」の制作チームが再結集。大注目のNHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」第8回「敵は幾万」。四三の兄が熊本から四三に渡航費の大金を渡すため上京、そこで四三はおさなじみのスヤの結婚を知らされる。そしていよいよ、ストックホルム・オリンピックへと向かう四三と弥彦。万歳三唱の中、旅立とうとする彼らの目の前に現れたのは……。

〈「いだてん」第8回「敵は幾万」あらすじ〉
大金を携えて上京してきた兄・実次(中村獅童)から、春野スヤ(綾瀬はるか)の働きかけで資金を得られたと知る四三。スヤと無邪気に野山を駆けていた自分が、オリンピックのために海を渡る不思議さを感じつつ、兄に一生懸命戦うことを誓う。四三の壮行会が開かれるころ、スヤは熊本で嫁入りをする。見送る大勢の人々の「敵は幾万」の歌に包まれ、オリンピックに出陣する四三と弥彦(生田斗真)。まさに汽車が動こうとしたとき、弥彦の名を叫ぶ声がする──。(番組公式HPより)


田舎者はなぜ声が大きいか

 もう十数年前のこと。ある音楽学者が、講演の始まりにいきなりマイクから遠ざかって大きな声をあげた。

 「わたしがこのホールの奥に声を届かせようとすると、こんな声になります」。わあんと声が反響する。今度は目の前の聞き手に向かって言った。「でも近くならこれくらいです」。反響は壁に吸い込まれて、か細い声がかろうじて聞こえる。彼がやったのはあまりにありふれたことだった。でも、てっきり用意されたマイクを通して、安定したボリュームの声で講演が始まると思っていたわたしは、こんな簡単なやり方でホールという空間の広さを感じさせる語り口にすっかり参ってしまった。語っていたのはマリー・シェーファー、「サウンド・スケープ」の創始者だ。わたしたちをとりまく音空間は単にきこえてくる景色でできているのではなく、声を発することで現れる能動的な空間である。それが、彼の示した重要なことだった。

 人は目の前の距離に合わせて声の大きさを変えるだけではない。自分の声の大きさにふさわしい位置に自分や相手を置く。実次兄ちゃんは、市電を降りて線路の向こうに四三を見つけると、そこから大声で呼ばわる。四三とたっぷり距離をとって、大通りで持参した金の額を告げる。「金千八百円、持ってきたばい!」。東京に住む者は、そんなに遠くから人を呼ばわったりしないし、そんなに大きな声をあげたりしない。それは熊本で、畑仕事をしている者に帰りを告げるときの声だ。田舎者は声が大きい。暮らしの空間が広いからだ。実次は、街には不似合いなその声の大きさで、故郷の空間を東京に現出させる。「たまがったか!」兄の声は、東京の喧騒を貫いて、たまがった弟を声の空間で抱きしめる。

 十二階に上った実次は、遠くに富士山を見つけてまたしても大声をあげる。「絶景ばーい!」富士山に届かせるように叫んでから、「阿蘇までは見えんねえ」と付け足す。まるで、どうかすると見えるかもしれない、とでも言うように。一方、四三はあまり元気がない。兄のことばで、阿蘇までの遠い距離が、目の前に広がっているかのように思えてくる。山あいでスヤと唄った「自転車節」が想い出される。けれどここと阿蘇とはあまりに遠くて、想い出された歌がいったいどこにこだましているのか見当もつかない。歌は、ここと阿蘇よりもずっと遠い、こことストックホルムとの距離に吸い込まれてしまう。

「兄上、俺は…生きて帰れっとだろか?」

 実次兄ちゃんは、あたりもかまわず声をあげる。「いまさら!弱音を吐くな!四三!」十二階の閣内には似つかわしくない大声、人をたまがらせる声、故郷の大声だ。「心配するな!母ちゃんも、俺も、みんなも無事ば祈っとるけん」。「うん。そぎゃんたいね」。四三は、街の声で答える。

 十二階を下りた実次はぽつぽつとスヤの祝言の話をする。スヤの話をきいて起こる感情を、四三は声にできないし、実次も詳しくは触れない。楽隊が四三の漏れ出した感情を奏でるように自転車節を鳴らしている。

 兄を乗せた市電が出る。何気ないことばを交わすことで別れがたさをまぎらしていた二人だったが、市電が遠ざかり始めてからようやく、兄が声をあげる。声にふさわしい空間が、遠ざかる距離によって生まれたかのように。「勝とうなどと思うな! 何も考えんで行って、走ったらよか。 『順道制勝』の精神たい!」かつて実次が達筆で太々と書き写した嘉納治五郎のことばだ。兄の姿が遠くなる。市電は、声にふさわしい空間よりも、もっと遠ざかる。四三はふっと笑う。

二番に気をつけろ

 日本人初のオリンピック選手が旅立つめでたい回だというのに、宮藤官九郎は不穏な気分をあちこちに配置してくる。四三を送る壮行会で、いつもは情けにもろく優しい可児が、酔って激烈なことばを吐く。

我らの希望に大いなる道を開く金栗四三よ!
勝たずんば盾に乗って帰れ!
勝利か、しからずんば死を与えよ!

 四三は得意の「自転車節」を唄う。一番はこれまでも唄われてきたが、このたび唄われた二番は、まるで四三の未来に暗雲を投げるような内容だ。

曲乗り上手と言われては
両手離した洒落男
あっち行っちゃ危ないよ
こっち行っちゃ危ないよ
危ないよと行ってる間に、そらずっこけた

 人におだてられ、走り出し、ずっこける歌。それを四三はこれ以上ないほど快活に、故郷の声で歌う。

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今週の「いだてん」噺

細馬宏通

近現代を扱ったNHK大河ドラマとしては33年ぶりとなる「いだてん〜東京オリムピック噺〜」。伝説の朝ドラ「あまちゃん」と同じ制作チーム(脚本・宮藤官九郎、音楽・大友良英、演出・井上剛)が、今度は日本人初のオリンピック選手・金栗四三と、6...もっと読む

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コメント

MariGIN25 可児先生が褒められてるw #いだてん #いまだけ無料 9ヶ月前 replyretweetfavorite

otmovie20503 "「倒れて後止むの大決心で臨む」「決して国体を辱めざることを期す」。その新体詩的な語調はまるきり「敵は幾万」の内容そのものだ。" 9ヶ月前 replyretweetfavorite

kana_ya ラストの一文にフッと笑ってしまった。 https://t.co/2fFsU787FE 9ヶ月前 replyretweetfavorite

hinatatsuki いだてん観た後この連載読むのが楽しみ。https://t.co/hclM5Q16j0 8話のエモさが言語化されてる…。お兄ちゃんの大きな声、四三の歌と不安、弥彦のお母さんの想い。毎回面白いけど、ほんと良い回だった。 9ヶ月前 replyretweetfavorite