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「自分は性嫌悪なのかもしれない」
そんなご投稿を、今回はいただきました。 子どもの頃、変質者に遭って、暗闇で急に声をかけられたあの瞬間が今でもフラッシュバックする。彼氏ができて一年半、前戯までしかしていない。自分は彼を愛することができるのだろうか……と、おっしゃるのです。
もう愛してるんじゃないの?
と、わたしは思いました。
愛は愛です。それだけよ。
「愛する彼なら抱かれて当然、愛する彼なら生で当然、やらない女は“性嫌悪”」……そうやって愛という言葉で性欲をキラキラさせようとなさる方々はいらっしゃいますし、そういった方々にそれぞれのご事情はあるのでしょうとお察ししますが、知らん。愛は愛です。ちんちんで示さなくたって、愛は愛です。
日本語インターネットで「性嫌悪」を検索すると「性嫌悪は恋愛下手」とかのたまう出会い系サイトPR記事が上位に出てきちゃったりしてわたしはさっきまでキレていたのですが、性嫌悪というのはそもそも、アメリカ精神神経医学会の診断マニュアルDSMに載っている医学概念。「永続的な、または繰り返される、性的パートナーとの性器接触に対する嫌悪感または忌避感」と定義されています。
要するに、アメリカで苦しんでる人がいて、それを治そうとしたお医者さんがいて、そうやってできた診断マニュアルを日本も日本語訳して採用した、という流れなんですね。だから、信頼できるお医者さんのところへいらっしゃるのは良いことだと思います。
けれど、
医学だっていつも発達過程にある
ということを忘れて欲しくないんです。例えばアメリカ精神神経学会は、1987年まで同性愛を病気扱いしていました。この事実からわたしは、「病気があり、社会がそれに対応する」という順番ではなく、「それを社会が病気と呼ぶから対応策を考える」という順番を見ます。性嫌悪という概念がアメリカ発祥であることを踏まえ、アメリカ社会がどういう社会であるかを、改めて調べてお考えになると発見があるかもしれない。cakesなら渡辺由佳里さんの連載「アメリカはいつも夢見ている」が参考になるでしょうし、わたしは「同性愛は病気なの?僕たちを振り分けた世界の同性愛診断法クロニクル」という、同性愛という言葉がどうやって生まれ、どう使われてきたかの本を書いています。
話を戻しましょう。性器接触を伴わないふれあいで本人たちが満たされるなら、それでもいい。社会がそれをなんと呼ぼうが、出会いサイトのPR記事がそれを恋愛下手と呼んで出会いサイトに誘導しようとしてこようが、どうでもいい。と、申し上げたい。それが、現代日本社会で「性嫌悪」と呼ばれる概念についてわたしが思うことです。ここまで、出会い系の宣伝に対抗したく無料公開したいと思います。
が。
一つだけ、気になることがある。それはご投稿者の方が、かつて男性の変質者に遭い、今も「憎むべき男性」という表現をお使いになっていることです。
誰かに傷をつけられた時、その誰かが属するカテゴリ全体が憎くなってしまう。
男から性暴力を受け、男全体が憎い。
そうやって、本当は美しいはずの世界まで憎しみに覆われてしまうこと、本当は「あなた」と出会えたはずなのにその人が「そいつら」の一味にしか見えなくなってしまうこと、そうやって可能性を奪われてしまうことが、わたしには一番、くやしいのです。
奪わせないために。
考えていきましょう。今回ご紹介するご投稿は……ご質問は「なぜ恋人同士は性行為をするものなのか」という形をとってはいますが……おそらく、根本的にはこういうことでしょう。
「男性の変質者に遭って以降、男性全体が憎く、そのせいでやっと出会えた彼氏のことまで“憎むべき男性”に見えてしまう」というお話です。
(わたしが原稿料をいただいてしっかり書くために、ここからは有料記事とさせていただきたいのですが、わたしの連載だけでなくcakes全体の数万本の記事を全部読めるようになるので、よろしければ是非応援してください)
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