「都会の真ん中に、信じられないような小さな緑の森があって、そこにぽつんと1軒、平日の3時間しかやらない定食屋があるんです。とにかく一度行ってみてください。不思議な立地です。そのちゃんぽんと皿うどんがめちゃくちゃおいしいんです。芸人さんにもファンが多いみたいですよ」。
20代のころ、隣町の四谷三丁目の編集プロダクションで4年間働いていたのに、編集のモトさんにそう言われるまで、水明亭の存在を知らなかった。
信濃町駅から徒歩数分。神宮外苑の絵画館すぐ裏に開店して56年になる。地下鉄都営大江戸線国立競技場駅A1出口から出ると1分だが、私はあえて信濃町駅から行く。正面口から、慶應病院側に信号を渡り、首都高沿いにてくてく数分歩いていくのが風情があっていい。
水明亭駐車場。左が建設中の国立競技場、右に歩くと店舗が
この先に飲食店などがあるのか? と不安になりそうな道路脇に、「ちゃんぽん・皿うどんの店 水明亭」という白地に朱色の古いプラスチックの看板があり、緑の小道が続く。引き込まれるように分け入ると、森の奥に、木立に囲まれた二階建ての一軒家が。木の引き戸にのれんで、その佇まいはレストランでも中華料理店でもない。まぎれもなく定食屋なのである。
2階は増築。営業は1階を中心に
こんな都会の真ん中に緑が? そこに56年間も? なぜ定食屋なのにちゃんぽん? 謎に満ちた訝しげな思いは、引き戸を開けると簡単に吹き飛んだ。白い運動靴に白い三角巾、赤いエプロンの女性たちがきびきびと働いている。サラリーマンやスーツを着た女性の一人客が次々と入っていき相席で並ぶ。時が止まったかのような外観の中は、活気がみなぎっていて気持ちも弾み、理屈や謎などどうでも良くなるのだ。
「食券はこちらです」
レジで皿うどんを前払い制で頼むと、銭湯の下駄箱の鍵のような楕円形のプラスチック札が渡される。リノリウムの床、壁には野球選手やジャニーズや芸人の色紙がびっしり。各テーブルの上にはお茶の入ったポットがあり、昼どきはひとり客もグループも容赦なく端から相席になる。その忖度をしない感じも田舎の公民館みたいな保温ポットも、従業員の三角巾も、注文札も何もかも懐かしい。
テーブルに1台ずつ保温ポット。壁のいたるところに色紙がズラリ
レジの食券。前払い制
そして、皿うどんを食べた。数分で、有田焼の大皿に大盛りのそれがやってきた。もちもちした麺は具の下に完全に隠れている。一口大に切ったキャベツやねぎ、ちくわの具がどっさりとかかっていて、ピンクの縁取りのかまぼこがアクセントに。豚肉も含め、いろんな歯ごたえがあるのだが、このちゃんぽんの魅力は、もやしである。綺麗にひげが取られ、シャキシャキの歯ごたえのままたっぷりとあんに絡んでいる。塩がメインの中華味で濃いめの味付け。
麺がもちもちの皿うどん。900円
私は3分の1を食べ終えたところで好物の酢をかけてカスタマイズ。2種の味を楽しんだ。
客の半数はちゃんぽんか皿うどんを。残りは「鮭のタルタルソース定食」や「メンチカツ定食」を頼んでいた。
2回めに行ったときは、ちゃんぽんを頼んだ。
生姜の風味がきいたちゃんぽん。麺に具を混ぜこんで盛るのが水明亭流。900円
こちらもまた、麺の上にはたっぷりの野菜が。やっぱりもちもちした太麺で、大きなラーメンどんぶりに盛られたのを最初に見たときに、「食べきれないかも」と思った。だが、本場・長崎のちゃんぽんよりあっさりしているので意外に全部食べられる。
醤油ベースのコクのあるスープが麺によくからんで、おいしい。生姜の風味がきいていて、ついついレンゲが止まらず、結局最期の1滴まで飲み干してしまった。
具も麺もスープも惜しみない感じが東京っぽくなくて、都心の真ん中という立地とのギャップに、とまどいすら抱く。地方の、ボリュームたっぷりで味も絶品の駅前食堂みたいな雰囲気なのだ。
店の営業は11時から14時までの3時間。都会の真ん中で、酒も出さず、夜も営業をしないとは、持ち家なのだろうかと無粋な問いがまたも脳内を埋める。
聞けば先代は九州で大きな料亭を営んでいたとのこと。なるほどそれで皿うどんとちゃんぽんか。
理屈はいらないと前述したけれど。
でもまあ、しかし。
この店の歴史は、おかみさんの本村律枝さんにしっかり聞いたので、ぜひとも紹介したいのである。元皇太后の休憩所。そして、一度ならず2度も、「東京オリンピック」に翻弄された水明亭の稀有な運命を。
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