真実の航跡 ─ プロローグ ─

戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。法の正義はどこにあるのか──。一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。昭和19年3月、大日本帝国海軍の重巡洋艦「久慈」は、インド洋でイギリス商船「ダートマス号」を撃沈。救助した捕虜を殺害した。戦犯弁護人として香港にやってきた若手弁護士の鮫島は、裁判資料を読み込むうちに、この事件の──大日本帝国海軍の──抱える闇に気づいていく。圧巻の歴史小説!(水・金 10時更新)

「艦長、あと三時間ほどでバンカ海峡に差し掛かります」

 航海長から報告を受けた重巡洋艦「」艦長のいぬいたかのりは、それを聞くと「少し休んでくる」と言って艦橋を後にした。

 艦長休憩室に向かう間、強い悪寒を感じ、突き上げるような吐き気に襲われた。

 ──もはや、猶予はない。

 艦長従兵の敬礼に答礼し、艦長休憩室に入ってドアを閉めると、背中に冷や汗が流れていることに気づいた。

 乾は倒れ込むように椅子に座ると、頭を抱えた。

 昭和十九年(一九四四)三月十八日、連日吹き続いていた北西からの季節風もやみ、海が穏やかな夜だった。先ほどまでとうしよくだった夕日も、今は真紅となってスマトラ島の山のに消え入ろうとしている。

 ──どうすべきか。

 艦の横腹に打ち付ける波の音さえ、決断を促しているように聞こえる。「久慈」艦長になった記念に、同期一同から贈られた腕時計の刻む音も焦燥感をあおる。

 バンカ海峡に入ってしまうと、潮流が複雑になるので、〝これから処分するもの〟が沿岸に流れ着いてしまう危険性がある。〝これから処分するもの〟は、どうしてもジャワ海に沈んでもらわねばならないのだ。

 ──だが私は、クリスチャンではなかったのか。

 軍人の使命とクリスチャンの良心がせめぎ合う。

 思い出が次々と脳裏によみがえってきた。

 猛勉強の末、海軍大学校に合格した時のこと、米国駐在武官に指名された時のこと、そしてイギリスの学会で、自らの砲術理論を英語で発表した時のこと、その中でも、ことさらうれしかったのは、「久慈」艦長にばつてきされた時のことだ。

 それまで乾は、重巡「あらたか」と戦艦「かつら」の副長を経て飛行艇母艦「」の艦長を務めてきたが、特筆すべき功績はなかった。そのため、突然の抜擢に喜びよりも戸惑いを感じたのを覚えている。

 重巡の艦長は日本海軍の花形ポストで、海軍兵学校(海兵)出身者なら誰もが憧れる職だった。しかしハンモックナンバー(海兵の成績順位)が中ぐらいの乾では、そのポストに就くまでには、時間がかかるはずだった。

 実はこの人事の背景には、激戦の連続による人材の損耗という日本海軍の深刻な問題が存在していた。とくに昭和十九年に入ると、戦況は日増しに悪化し、乾の所属する海兵四十七期にも戦死者が出始めていた。

「久慈」の艦長になった時から、乾は死を覚悟していた。「久慈」と「たか」は、艦隊の前衛を成すために造られた最新型の航空巡洋艦で、艦隊決戦ともなれば、他艦に比べて損害が大きくなるはずだからだ。

 乾は、どうせ死ぬなら戦艦の艦長ないしは戦隊司令官として敵に砲撃戦を挑み、悔いのない死に方をしたかった。

 ──だが、これまで私の主張は否定されてきた。

 すでに世は航空戦の時代であり、大艦巨砲主義は時代遅れだとされていた。

 それでも乾は持ち前の粘り強さによって、「空母重視を廃し、艦隊決戦を実行すれば勝てる」ということを主張し続けた。

 ──いつの日か、「大和やまと」か「武蔵むさし」の艦長になり、そのことを証明したい。

 それが乾の次なる目標になった。

 しかし「久慈」の艦長となって初めての作戦で、このような困難な状況に追い込まれるとは思ってもみなかった。

 ──主よ、あなたは私に、なぜこれほどの苦しみを与えるのか!

 机の上に頭を叩きつけても、この苦境からは脱せない。

 上長にあたる五十嵐いがらしとし第十六戦隊司令官は、「南西方面艦隊司令部から、『敵の人的資源を断て』という命令が出ている。反論の余地はない。命令に従うだけだ」と言っていた。

 ──それがいかなる経緯で出された命令かは知らないが、それなら捕虜となった者たちを収容所に入れれば済む話ではないか。

 乾はインド洋作戦の開始にあたる会議で、五十嵐第十六戦隊司令官から「船舶のおよび情報を得るために必要最低数の捕虜を除く、すべての捕虜を処分すること」という話を聞いた時、猛然と反対しなかったことを悔いていた。

 ──まさか、こんな立場に追い込まれるとは思わなかった。

 クリスチャンである乾には、「処分」などという残虐な行為はできない。しかし捕虜を連れ帰れば、抗命罪に問われるかもしれないのだ。

 一昨日、寄港地のバタビア(現ジャカルタ)で第十六戦隊先任参謀のとうしんざぶろう少将から告げられたのは、「君の行為は命令違反にあたる」という言葉だ。そうなれば「大和」や「武蔵」の艦長どころか、収監されることさえ考えられる。

 ──すべては、こんな理不尽な命令を下した五十嵐司令官のせいだ。

 しかし五十嵐を恨んだところで、この苦境から脱することはできない。

 その時、ふと机の中にしのばせていた自決用の拳銃のことを思い出した。艦を沈めねばならない時、乾は艦と運命を共にすべく、艦長休憩室に拳銃を持ち込んでいたのだ。

 恐る恐る机の引き出しを引くと、浜田式自動拳銃がそこにあった。

 手に取ってみると、いつもより重く感じる。

 むろんクリスチャンは自殺などできないが、沈没の際、下手をすると艦から放り出され、救出されることも考えられる。帝国軍人として、それだけは耐えられない。それゆえ乾は、クリスチャンとしての信条に反しても、総員退艦を下命した直後に自殺するつもりでいた。

 ──だが、そうした場合以外に自殺などできない。

 帝国海軍の軍艦を預かる艦長が、何事かを決断できずに自殺するなど前代未聞である。

 時計の針が刻一刻と時を刻む。

 ──待てよ。すでに「久慈」は十六戦隊の指揮下を離れ、シンガポールの第二艦隊第七戦隊への復帰を命じられている。つまり七戦隊司令官に判断を委ねてしまえばよいではないか。

 しかし本来所属する隊の上官に、前の作戦の事後処理を押し付けるのは心苦しい。

 海軍には、「新たな職場に前任の仕事を持ち込まない」という不文律があり、それを破った者には居場所がなくなる。

 その時、ノックが聞こえた。

「入れ」

 艦長従兵が開けたドアから入ってきたのは、衛兵司令のあかいしこう大尉だった。

 衛兵司令は艦内の軍紀と風紀を取り締まり、様々な儀式や催事を行う際の実行責任者となる。

「どうした」

「捕虜たちが、飯が食えないと言って騒いでいます」

「何を出した」

「われわれと同じものです」

「というと白米にたくあんを付けたものか」

 赤石が「はい」と言ってうなずく。

「欧米人が、そんなものを食べるか」

「では、何を出しますか」

「パンとかコーヒーがあるだろう」

「士官調理室に聞いたのですが、そうしたものは士官用の朝食に少しあるだけで、それをやってしまうと、明朝の分がなくなるそうです」

 ──奴らにとって「最後のばんさん」になるかもしれない。

 乾の脳裏に、ダ・ヴィンチの描いたキリスト教絵画が浮かぶ。

「構わない。奴らがほしがるものをやれ」

「分かりました。失礼します」

 そう言うと赤石は敬礼して出ていった。

 ──あっちの連中は捕虜になっても意気盛んだ。

 すでに勝利が見えてきているからか、敵国の人々は捕虜になっても元気がよく、平然と待遇改善を要求する。その勇気には見上げたものがある。

 ──勇気か。

 乾は、海軍兵学校時代に言われた言葉を思い出していた。

 乾は身長が百五十四センチメートルしかなく、四十七期生の中で最も小柄だった。その上、体も弱く、幼い頃から食あたりなどの病気によくかかった。

 入校後、練習艦に乗せられて航海に出た時、パラチフスにかんして流動食しか喉を通らないことがあった。なんとかじまの海軍兵学校に戻れたものの、休む間もなく翌日から体育訓練が始まった。乾は無理を押して参加したが、いつもは軽く跳べた跳び箱が、どうしても跳べない。足に力が入らないのだ。

 その時、跳び箱の上で尻餅をつく乾を見ながら、教官は言った。

「お前には、軍人として最も必要な勇気がない」

 その時の嘲るような教官の顔が、今でも思い出される。それは捕虜にした白人たちの顔と何ら変わらない。

 ──甲板の上に整列させても、奴らは横柄な態度で日本人の悪口を言っていた。

 乾が英語を解するとは知らず、捕虜たちは日本人のことを口汚く罵っていた。ジュネーヴ条約により、捕虜の命が保障されているのを知っているからだ。

 捕虜たちが、乾を嘲笑っているような気がする。

 笑い声と英語での悪態が、次々と耳の奥によみがえる。

 気づくと額から汗が滴っていた。それを袖で拭うと、乾は鋭い声で従兵を呼んだ。

「赤石を呼んでこい!」

「はい」と言って走り去る従兵の靴音が、脳をえぐるように刻まれた。

<次回は3月6日(水)更新です>

コルク

この連載について

真実の航跡

伊東潤

一人の若き弁護士が、“勝者なき裁判”に挑む。圧巻の歴史小説! 太平洋戦争中に起きた非道な捕虜殺害事件。 戦後、BC級戦犯裁判で浮かび上がった、驚愕の真実。 法の正義はどこにあるのか――。 昭和19年3月、大日本帝国海軍...もっと読む

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