鈴木はサントスの義妹・西原実歩と面会する
36
「形式上は証人としてVienna(ウィーン)から連れてきたことになっている」
「そうなの」
「だから、FBIでParis(パリ)までの飛行機代が出せる」
「片道だけ?」
「そう。取りあえず一度遊びに来ないか」
「そうね、考えてみる」
二人は、LEGAT東京のカンファランスルームに座っていた。
「特別捜査官、お客様がゲートに来ているそうです」
日系の事務官が日本語で声を掛けた。
「ありがとう」
鈴木は大学に戻るという菜月を連れてゲートに向かった。
中年の女性が待っていた。
事務官に応接室への案内を指示し、菜月を見送ると自分も応接室に入った。
「こんにちは。椎名実歩さんですね」
声を掛けた鈴木に驚いたように振り向くと、品の良い顔立ちの、化粧をほとんど感じさせないその女性は、軽く会釈をした。
(天使のような人だ)
と鈴木は思った。
「いろいろとご迷惑をおかけしました。兄に神父さんが主人を訪ねて来たことを伝えたのが私であることはお判りだったのでしょう」
鈴木は悪戯っぽい笑顔を作りながら、はっきりと頷いた。
「みなさん、優しい方ばかりで」
悲しそうな顔をしていた。
「今日はどのようなご用件ですか?」
「兄の名誉のためにも、お話しすべきであると思いました」
「何か事情があったことは理解しています。それでよいのでは」
実歩はゆっくりと首を振った。
「それでは兄がうかばれません」
「そうですか。判りました」
鈴木は覚悟を決めた。
応接室のドアーが開き、事務官がコーヒーを運んできた。
「アメリカ大使館ですが、一応、日本流に」
鈴木は、わざとおどけて見せた。実歩の顔に微笑みが浮かんだようにも思えた。
身体中から周りの人間を包み込むような優しさのオーラが溢れている。
(この人はリーを殺していない)
鈴木は直感的にそう思った。
「リーは悪魔のような人でした。母には暴力を振るう毎日で、私はサンフランシスコに着いたその日に犯されました」
実歩は自分を奮い立たせるように顔を上げると、続けた。
「ギャンブルに嵌(はま)ってからは、更に酷くなりました。バタックを出る時に渡されたお金がなくなると、私に客を取らせるようになりました。母も必死で私を守ろうとしていましたが、リーの暴力には勝てない毎日でした」
眼に涙が滲んでいる。
「私はジョージ・ワシントン校から来た若いクリスティーンと呼ばれ、男たちに人気がありました。客は絶えず、その要求は口に出せないほど醜いものばかりでした。何も考えられない、地獄の日々が続きました。自分は前世の償いをしているのだと言いきかせながら、耐えていました」
恐ろしい話をしているのに、この人からは醜い感覚が伝わって来ない。
鈴木は不思議だった。この女性にはどんな汚いことでも綺麗に浄化してしまう不思議な力がある。
「ある日、国外勤務から戻ったフィデルが訪ねて来ました。兄は、一瞬にして事情を理解したようでした。黙ってリーの部屋に行き、すぐに戻ってくると、母と私に急いで逃げる準備をさせ、母の教会まで連れて行ってくれました」
フィデル・サントスはどのようなことをしても実歩という女性を守ろうと考えたのだろう。彼女の話す姿を見ているだけで、鈴木にはサントスの心が手に取るように判った。
フィデル・サントスは愛よりももっと崇高な感情でこの女性を見ていたに違いない。
(マリアか)
鈴木は、ふとそう思った。
フィデル・サントスにとって西原実歩という女性は聖母マリアその人だったのだ。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。