遠すぎるピクサーへ、初めての訪問
ピクサーはカリフォルニア州ポイントリッチモンドにあった。ポイントリッチモンドなど聞いたこともないし、もちろん、行ったこともない。だから、まずは地図で場所を確認しなければならなかった。バークレーとサンラファエルのあいだにある小さな街だ。
行き方を考えるとめまいがした。パロアルトからだと、まずは101号線を北にサンフランシスコまで走り、80号線でベイブリッジを東に渡る。そのまま80号線で北に曲がり、バークレーの横をすぎたら580号線を西にカッティング通りまで走る。これでピクサー到着だ。大丈夫だ、このくらいたいしたことはないと自分に言い聞かせたが、その実、不安でいっぱいだった。カリフォルニア州有数というくらい渋滞がひどいところばかりを通るのだ。ピクサー往復が楽しいはずがない。
私は、ずっと、家族との時間を大事にしてきた。子どもはふたり。9歳の息子ジェイソンと6歳の娘サラだ。3人目は、まだ、妻ヒラリーのお腹の中にいる。仕事はなかなかに大変で、いるべきときに必ず家族といられるわけではないが、でも、できる限りの努力はしてきた。子どもともかかわっており、夜には読み聞かせもするし、宿題も手伝う。学校にも車で送っていく。この程度でもやるのは大変だ。このあたりができなくなる仕事に就くなど、とても考えられない。
私は地図を置き、肩を落とした。
「どうしたらいいんだろう」
ある夜、ヒラリーに相談した。
「遠すぎるんだ。この仕事をしながらここに住むのは無理だと思う。でも、引っ越すのも考え物だ。リスクがありすぎる。この仕事がどのくらい続くかわからないからね。あっという間に終わってしまったら、ここから引っ越さなければよかったと思うはずだ」
ヒラリーとはインディアナ大学で出会った。私が入学したのは17歳のとき、生まれ育った英国ロンドンからインディアナポリスへ移民してきて1年後のことだ。ヒラリーは小柄で、青い目に波打つ栗色の髪、細面のかわいい女性だ。気立ては優しく落ち着きがあり、聡明でもある。大学院で学生結婚した。ふたりとも20代のころずいぶんと変わったので、一緒に育ったようなものだねとよく言い合っている。
ふたりともボストンの大学院を卒業後、私の両親が住んでいたフロリダ州で就職。2~3年、フロリダで働いたあと、ハイテクという新しい世界で法律の仕事がしたいと私が希望し、シリコンバレーに移ることにした。当時1歳の長男を連れ、家族3人で西へ。言語病理学の修士号を持つヒラリーは、スタンフォード大学メディカルセンターに就職し、脳卒中や頭部外傷で言葉がうまく操れなくなった患者のリハビリ担当となった。ここまで、大きな決断は、必ず夫婦で相談して決めてきていた。
「場所は、まだ気にしなくていいんじゃない? よく考えもせずに断る話じゃないでしょう。もうちょっといろいろ調べてごらんなさいよ。決めるのはそれからでも遅くないわ」
憂鬱な通勤ドライブの先には
これで心は決まった。訪問の日を決め、数日後、車でピクサーに向かう。
サンフランシスコに向けてハイウェイ101号線を走ると、街の威容がよく見える。起伏に富んだ地形を家が埋め尽くしている。美しく輝くオフィスビルが立ちならぶのは金融街だ。海側に低く垂れ込めている雲は、午後には消えるだろう。すばらしい眺めである。
101号線は街中からゴールデンゲートブリッジへいたる道と、ベイブリッジで湾を渡りバークレーへ向かう道に分かれる。ベイブリッジ側に行く私は、右側の車線に移った。
美しい景観に酔っていた私は、合流する車による渋滞で現実に引き戻された。ベイブリッジは古い吊り橋で、これを渡りながら、私は、60名近い死者を出したロマ・プリータ地震を思いだしていた。橋は2階建てなのだが、5年前の1989年、この地震で2階の一部が崩れて1階部分に落下し、ひとりが死亡したのだ。
この橋を毎日渡るのかと思うと、その光景が思いだされてならない。橋を渡り終えると、反対車線にサンフランシスコへ向かう車が料金所を先頭にずらりと並んでいるのが見える。渋滞は何キロも続いているようだ。戻りはこれに並ぶのか。やっぱり最悪だ。こんな通勤が必要な仕事なんてできるはずがない。
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