経堂から石巻に支援物資や義援金をコンスタントに送るシステムの構築は、1週間ほどででき上がった。構築と言っても、私が十数店舗の顔なじみの店に必要な物資のリストを持ってうかがい、事情を話すというアナログな作業の積み重ねなのだが……。
お店の人たちのリアクションは驚くほどスピーディで、ほとんどの店から「了解! うちのお客さんに声かけて、どんどん集めるから!」というノリがいい頼もしい返事が。そしてみなさん、本当にどんどんリクエスト通りの物資を自転車や台車で持って来てくれた。
東北道が開通したら第一弾として送る物資は、あっという間に、素人目にもわかる、トラックが必要な分量となり、「さばのゆ」の店先と中の壁際は物資で埋め尽くされた。経堂という街の個人店と、そこに集うお客さんのつながり、ネットワークの力は予想以上に強いと実感させられた。
義援金もどんどん集まって来ていたが、支援が長丁場になることを考えると、細く長く義援金を確保する仕組みを作らねばとも考えた。ちょうど、3月23、24、25日の夜、「さばのゆ」のイベントは、上方落語のホープ桂吉坊さんの落語会だった。東京の落語会に出はじめて2、3年だった彼の落語会は、前年の2010年7月から月に3回行われ、毎回大入りだった。木戸銭2500円。その3割をチャリティにと考えた。吉坊さんに相談すると、「お役に立てるなら!」と快諾してくれた。
落語を聴くことが支援につながると知った経堂の店の人たちは、それまでよりも熱心に吉坊さんの会の宣伝をお客さんにしてくれた。その後、吉坊さんを中心とした「さばのゆ」落語会のチャリティは、年末までの10ヶ月間続けて、50万円近い額になった。
事故や災害、あるいは旅先などの非日常時になると、人間は「地」が出るというか、本来の持って生まれた性格があらわになると言われるが、地域もそれと同じだと思った。災害をきっかけに住人同士の仲や治安が悪くなる地域もあれば、結束が強まる地域もある。経堂の場合は完全な後者で、仲のいい商店街の個人店は、みごとに助け合いモードになった。まるで、落語の長屋のような人情の街、被災地の惨状を見聞きしていると、いても立ってもいられなくなる人が多かったのだ。
チケット代金の3割が物資の輸送費に充てられた桂吉坊さんのチャリティ落語会と、カウン
ターが賑わう「さばのゆ」店内。支援の要は、酒場のつながりだった。
実は、落語の長屋のような街というのは、私が経堂にハマった理由でもあった。
私が、経堂エリアの個人店の応援サイト「経堂系ドットコム」を設立したきっかけは、1997年の消費税増税後に売り上げが減り、閉店危機に陥った行きつけのラーメン店「からから亭」の経営を立て直すイベントだった。
そのお店は、とても魅力の深い場所で、様々な人が集まっていた。通いはじめたのは1997年の秋。当時私は20代後半で、コントを中心とした放送台本、子ども番組の脚本、書籍や雑誌などのライター仕事などで忙しく、1日じゅうワープロに向かい他人と話すことのない日が多かった。なので、夜、仕事が早く終わると、経堂の家族経営の飲食店のカウンターで食事をしながら飲み、店のおやじさん、おかみさん、地域のいろんな人たちとふれあうのが楽しかったのだ。
中でも「からから亭」は特別な店だった。下町は東向島出身のマスター、栃木要三さんは、1979年から89年まで、柳家小さん、柳家小三治、桂歌丸、春風亭小朝など、大御所、人気者が多数出演した伝説の地域寄席「経堂落語会」の代表世話人をつとめた落語好きの人情派だった。やさしい奥さんは岩手の釜石出身。人にやさしく、人のつながりを作るラーメン屋で、集金にやって来た新聞配達の苦学生の顔色が少し悪いと、「いいからそこに座んなさい!」と、大盛りの野菜炒めをトッピングしたラーメンを食べさせる。リストラされそうと肩を落として語る常連さんに「今日は、もういいよ」と、お代を取らずに焼酎を何杯も注ぐ。ある時、私が友人4人と飲む気たっぷりでのれんをくぐったら、「ゴメン。この間できた店が、客入ってないっていうから、そっち行ってたくさん飲んであげて」と入店を断られたことまであった。
またある時、ラーメンを注文すると、島原そうめんを取り出して、「雲仙普賢岳の被害でさ、まだまだ大変だっていうじゃない。今夜はラーメン禁止。これ食べよう。本当なら、もっとドッサリ仕入れて島原の人たちに貢献したいんだけど」と、島原そうめんを食べる会になったり。
そんな、人情とユーモアあふれるアットホームな個人経営のお店は、お好み焼き「ぼんち」「赤提灯・太郎」などいくつもあり、それが経堂という街の特徴だった。
しかし、1998年頃から駅前に値段の安いチェーン店が次々にオープンすると、客は、安さを求めてそちらに流れるようになった。「からから亭」のような家族経営の店は、チェーン店的な大量仕入れで安価に食材を確保することは無理。3%から5%に上がった消費税のせいで、高くなる一方の仕入れ値に悩み、経営が厳しくなっていた。
そしてとうとう、2000年の8月、深夜1時頃、カウンターに残る客が私1人になった時。栃木さんからこう告げられた。
「須田さんさあ、うち、じわじわ売り上げが減ってきて、曜日によっては何千円って日もあってね。そろそろ店を閉めようかと考えてる」
ショックを受けた私は、すぐに何とかしなければと思った。そして、数日考えた結果、生まれたのが、次にあげる「からから亭」再生案だった。
① 化学調味料を使わない店なので、味が良ければ少し高くても来る客層をターゲットに。
② 酒場色を強める。ツマミを増やし、ドリンク代を稼ぎ、客単価を上げる。
③ 栃木さんの人柄が好きな顧客=ファンの多い店にする。
④ イベントを定期開催して新規顧客を増やし、リピーターはメーリングリストでつなぎ、コミュニティを作る。
具体的な活動は、翌9月からはじめた。メインは、売り上げの少ない月曜日に毎週開催するバルイベント。会費制の宴会ではなく、立ち飲みの酒場のように、ドリンクとフードの代金は注文時に支払うキャッシュオンデリバリー制。これなら幹事不要で、誰もが好きな時に飲みに来て、好きなものを飲み食いして、好きな時に帰ることができる。
私は栃木さんに、お釣りの小銭の用意と300円くらいのツマミメニューの充実を頼んだ。時間は夕方6時から12時まで。私は、同じくカウンターの常連だったプロ将棋棋士の高野秀行さんたちと共同で、友人、知人に声をかけまくった。すると、月曜日はたくさんの人で賑わい、売り上げも店主の栃木さんが笑顔になる数字になった。集まった人たちにはメーリングリストに参加してもらい、ネットとリアルをつなぎ、人と人の横のつながりを作った。活動体の名前は、90年代に流行った「渋谷系」に似た「経堂系」とした。
このバルイベントは、その後、約150回連続、3年間続けた。2年が過ぎる頃には、参加者が常連となり、他の曜日にも飲みに来るようになり、友人知人も連れてきたため、客数と売り上げが増えた。そのようなことの積み重ねで経営が再び軌道に乗ったので、「からから亭」は、2003年末にイベントをやめて、月曜日は通常営業に戻った。
私は、このバルイベントを続けている間に、経堂の他の店からも相談を受けることが多くなっていた。そこで、WEBサイト「経堂系ドットコム」を立ち上げ、経堂の個人店の情報発信を行うかたわら、銭湯やお寺、お店でのイベントも活発に開催。終演後、イベントに集まった人には、商店街の飲食店に流れてもらい、リアルな賑わいを街に運んだ。
復活した「からから亭」はまた、新聞配達の苦学生に無料でラーメンをごちそうしたり、貧乏な演劇青年にサービスで酒を飲ませる店に戻った。が、そんな「からから亭」が、2007年4月、栃木さんが難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症し、人工呼吸器を付け寝たきりになり、閉店するということに。そして、事業の継続が不可能になった時、銀行の借金が原因で自宅兼店舗が差し押さえられ、競売にかけられてしまうという悲劇に見舞われた。68歳、「あと10年がんばって働く!」と元気に語っていた矢先だった。
難病で動けないのに住むところがなくなる。常連全員が絶望的になった時、奇跡が起きた。ご近所の居酒屋、「らかん茶屋」の奥さんが競売に乗り込んで、「からから亭」の物件を落札、買い取ってしまったのだった。
「おとうさん、ずっと店にいていいから。安心して、ゆっくり治してちょうだいね」
そのおかげで栃木さんは、慣れ親しんだ店の奥の部屋で、2013年末に亡くなるまで、7年間の療養生活を過ごすことができた。これも経堂長屋の人情噺だった。
紙数がいくらあっても足りないので、このへんにしておくが、私が20代後半~30代にかけて、経堂の街にはこういったリアルな人情噺が非常に多く、昔から落語が好きだった私はすっかり感化されてしまったのだった。
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