泥まみれの缶詰がつないだ 震災直後の命と希望

東日本大震災による大津波は、宮城県石巻市にあった木の屋石巻水産の工場を壊滅させました。掘り出された缶詰は、東京・世田谷の経堂に運ばれ、商店街の人々の協力で磨き上げられ、1缶300円で販売されました。「希望の缶詰」と呼ばれたその缶詰は、人と人をつなぎ、全国に広がり、洗われ、販売され、工場再建のきっかけとなります。 震災で希望を忘れなかった人と、手と心を差し出した人情商店街の人々がつながった感動の物語です。(バナーの写真:佐藤孝仁)

「いやー、湊中学などの避難所には、決定的に物がないんですよ。それを早急にどうにかしたいと思いまして」

 再会を果たした鈴木さんと松友さんから聞いた石巻の現状は、想像を絶する厳しさだった。東北の3月は寒く、深夜から朝方にかけて気温が零下となるにもかかわらず、毛布やストーブなどが足りない。さらに、セーターやコートなどの上着だけでなく下着も足りない。トイレットペーパー、ティッシュ、石鹸、洗剤、生理用品、紙オムツ、ミルク、ストーブ、懐中電灯、乾電池などの日用品も、もちろん食品も不足していた。

 ガスや電気が使えないためカセットコンロが必要だったが、絶対数が不足していた。食料は、自衛隊が差し入れる、おにぎり、缶詰、レトルト食品、カンパンなどがあるが、分けるとすぐになくなってしまう。1日の食事が、ビスケット1、2枚という危機こそ脱したが、状況は深刻。外部の支援が早急に必要ということだった。

 しかし、そんな状況下でも、ふとした笑いや喜びもあるらしい。石巻は、水産加工業を中心に食品関係の工場が多く、漁港近くには冷凍倉庫も集まっていた。そのため、避難所の人たちがガレキをくぐり食料を探して歩いていると、思わぬラッキーな掘り出し物に巡りあうことがあるという。

「満潮の時、津波にやられて低くなったところに海の水が流れ込んで来るんですけど、冷凍のサーモンが入った発泡スチロールのパックがプカプカ浮いているのを発見した人がいて、なんとか拾って持ち帰ったら、ちょうど食べ頃のルイベ状態だったそうです」

「あと、これまた発泡スチロールに入ったA5ランクの松坂牛が入っていて、なんだかツイてるなあという話をしたり。やっぱり、美味しい物を食べると、みんな元気になりますよね!」

 もともと明るい性格の鈴木さんの話は面白く、聞いていると、震災からまだ5日目だということを忘れそうになった。少し前に昇太さんが口にした「生きてれば、必ず何とかなるんだから!」という言葉がリアルに蘇る。

 その時だった。「あっ、大切なことを言い忘れてました!」と、突然、鈴木さんが大声をあげた。

「港のほうに食料を探しに行った人が、ラベルのない缶詰がいくつも落ちているのを発見して持ち帰ってきたら、弊社の缶詰でした。津波の衝撃で缶の外側が凹んでる物もありましたが、開けてみたら中味は大丈夫。サバ缶やサンマ缶、あとイワシ缶、鯨の大和煮もあり、食べるとやっぱり旨いんですね、これが!」

 大盛りラーメンを完食した直後にもかかわらず、舌なめずりのジェスチャーをしながら熱く語っている。この人の食いしん坊パワーは本物だとあらためて思った。

 もう食べられないと思っていた缶詰が、津波でも壊れることなく、開けてみると中身は無事で、美味しく食べることができるという。さらに、その流された缶詰を拾って食べて命をつないでいる人がいる。「もう、この味が食べられない」と悲嘆にくれる経堂の住人としては、つかの間、心の温まる話題だった。

 しかし、感傷に浸っている時間はなかった。鈴木さんと松友さんは、ラーメンを食べたあと1時間ほど話すと、「明日も早く起きて、支援物資の手配などの準備があるので、そろそろ」とのことだった。これからどうなるのかまったく想像がつかなかったが、こちらも「とりあえず、やれることがあったら何でもしますから」としか言えなかった。しかし、嬉しいのは、これからは携帯電話で連絡がつくことだった。

「連絡を取り合って、できることからやっていきましょう!」私たちはそう言い合って、経堂駅前で別れた。

チャリティ落語会を開催!

集まる義援金と支援物資

「とにかく早く、必要な物資を届けるシステムを作らなければ!」

 経堂で再会した鈴木さんは実家の千葉に、松友さんは東京・阿佐谷の祖父の家に、それぞれ戻った。食料や日用品が欠乏し、電気もガスも水道もない石巻の避難所に支援物資を送る準備をするためだった。

 震災発生から1週間後の3月18日は、当時の発表で確認された死者が5000人を超えた日で、宮城県はもっとも多い3158人。その中で最大の被害人数を出しているのが石巻だった。3月も後半に入ったにもかかわらず真冬並みの寒さが続き、避難所では高齢者と子どもを中心に風邪が蔓延していた。

 しかし、過酷な状況の中、復興に向けての動きも力強くはじまっていた。東北地方の物流のハブである仙台港に、食料や燃料などの支援物資が続々と届き、津波に飲み込まれた仙台空港も利用が再開された。各地の避難所に物資をスムーズに運ぶための幹線道の復旧も急ピッチで進められていた。

 石巻の市街地では、水没していた地域の水が引いてきた。津波で本社と工場を流されてしまった木の屋だが、牧山の麓に6階建ての水産ビルを所有しており、2階から上は無事だった。このあたりは、石巻漁港からは2㎞ほど、旧・北上川からは500mほどの距離。水産ビルの近くに、木村社長と、弟の木村隆之副社長の自宅と社員寮があったが、2人の自宅は、1階は津波が突き抜け、乗用車が数台、家の敷地内に突っ込んでいた。社員寮は、1階は天井まで津波が来たが、2階から上は何とか無事で、社長、副社長一家と残りの社員たちが、避難所さながらに寝起きをしている状況だった。

 私は、経堂の街として何ができるかを考えた。鈴木さんに電話で相談して、まずは、木の屋のみなさんが避難する地域に支援物資や義援金を送る準備をすることにした。というのも、首都圏と東北をつなぐ大動脈である東北道が1週間ほどで全面再開するという情報が入っていたからだ。復興は絶対に長丁場になると思われた。一時的ではなく、数ヶ月、もしかすると数年間の継続的な活動を行うために、次の5つの要素を軸に支援活動を行うことにした。

① 必要な物資を現地の人に聞いてリサーチする。

② 物資のリストをまとめ、ブログやSNSで発信、寄付を募る。

③ 「さばのゆ」を物資の集積所とする。

④ 物資の輸送に必要な車輛費、ガソリン代、人件費などの寄付を募る。

⑤ 「さばのゆ」で行うイベントの収益の一部を物資の購入や輸送費に充てる。

 できるだけ早く支援物資の輸送をはじめたい。そう考えて、被災地で必要とされる物が何なのか、現地情報を受けてリストの作成をはじめた。やはり、平穏な東京の感覚だと思いつかない意外な物が必要とされていた。その1つにガソリンの携行缶があった。

 今回の震災が阪神淡路大震災と決定的に異なるのは、東北の被災地域の広大さだった。もともと車社会であり、主要な鉄路や駅の多くが破壊されてしまったため、移動や支援物資の輸送の頼みの綱は何といっても車。にもかかわらず、営業不可能となったガソリンスタンドが多かった。被災エリアに暮らす人たちは、備蓄用のガソリンを確保しておく必要があったのだ。その他、簡単に食べられて保存の利く食品、トイレットペーパーやおしめなどの衛生用品、暖かい衣服、スリッパなどがリストに上がった。

 そのリストを近所のお店のカウンターで店主に伝えたり、ブログやSNSで発信すると、すぐに物資が集まりはじめた。ガソリンの携行缶は難しいと思っていたら、常連の大久保さんが都内を探し回って、ようやく見つけた携行缶を持って来てくれた。震災直前に打ち合わせをしていたコクヨの黒田さんは、学生時代にボートのお店でアルバイト経験があり、西宮のヨットハーバー周辺から小型船舶用の携行缶を5つほど送ってくれた。

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この連載について

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蘇るサバ缶〜震災と希望と人情商店街〜

須田泰成

東日本大震災による大津波は、宮城県石巻市にあった木の屋石巻水産の工場を壊滅させました。掘り出された缶詰は、東京・世田谷の経堂に運ばれ、商店街の人々の協力で磨き上げられ、1缶300円で販売されました。「希望の缶詰」と呼ばれたその缶詰は、...もっと読む

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