生きていた営業マン! 5日目に聞けた無事の声

東日本大震災による大津波は、宮城県石巻市にあった木の屋石巻水産の工場を壊滅させました。掘り出された缶詰は、東京・世田谷の経堂に運ばれ、商店街の人々の協力で磨き上げられ、1缶300円で販売されました。「希望の缶詰」と呼ばれたその缶詰は、人と人をつなぎ、全国に広がり、洗われ、販売され、工場再建のきっかけとなります。 震災で希望を忘れなかった人と、手と心を差し出した人情商店街の人々がつながった感動の物語です。(バナーの写真:佐藤孝仁)

 阪神淡路大震災の時、兵庫県芦屋市にあった私の実家は、半壊して住めなくなった。家族は屋外に逃れることができ、着の身着のまま西宮北口駅まで数時間かけて歩き、電車に乗り、大阪に避難できた。が、周辺の被害はひどく、かなりの数の人がケガをしたり亡くなったりした。

 当時、知った言葉が「72時間の壁」。これは、災害における人命救助の用語で、災害で倒壊したビルや家屋などに閉じ込められた人を救助する際、発生から72時間が経過すると、脱水症状や低体温症などにより、生存率が急激に低下するということ。東日本大震災でも、発生から2日ほど経つと、メディアでは「72時間の壁」が語られはじめた。72時間は丸3日。つまりは、3月14日の午後3時あたりに安否を分ける壁があるということだった。

 被災地の惨状に呆然とするうちに、気がつけば「72時間の壁」を越え、4日目の3月15日になっていた。が、しかし、依然として木の屋社員の無事を伝える報告は届いていなかった。この頃になると、じりじり焦る気持ちが強まってきた。グーグルのパーソンファインダーの画面を見ていると、松友さんの妹さんが「兄の情報を求む」と書き込んでいたので、私も「情報が入ったら共有しましょう」とコメントした。SNSの画面を開けると、「さばのゆ」の常連さんや経堂の人たちから「木の屋さん大丈夫でしたか?」というメールがたくさん届いていた。それらに対して「了解です」とか「お知らせしますね」など返信しながら、どんどん気が重くなっていた。

 その夜、お店は休みだった。家に帰っても震災報道を見てしまうだろうし、気分を変えたくて、駒沢にバーを共同経営していた松尾貴史さんと飲むことにした。

 私は、2010年7月、松尾さんを鈴木さんに紹介。松尾さんは、当時、私がもう1軒経営していた下北沢のイベントカフェ「スローコメディファクトリー」(通称スロコメ)の隣に、カレーのお店「パンニャ」を出していて、木の屋製造の鯨カレー缶の監修をすることになった。その缶詰は、私がプロデュースを担当して、2011年2月に5000缶が製造され、スパイシー鯨術カレーという名前で売り出されることになっていた。

 カレー缶詰のパッケージは、2月に開催した、経堂エリアゆかりのアーティストが参加するコンペによって、いたばしともこさんの作品に決まっていた。しかし、津波の被害を考えると、すべて流されてしまっただろう。幸い、3月初旬に400缶ほどを送ってもらっていたので、それだけはストックとなった。

 飲んでいると突然、私の携帯電話が鳴った。発信元は知らない番号だった。電話に出ると聞き慣れた声。

「いやー、どうもどうも!」鈴木さんだった。

「鈴木さん! 鈴木さん!」

「ご連絡遅くなってスミマセンでした。今日やっと自衛隊にヘリコプターで助けられて石巻市総合運動公園に来ました。今、NTTが設置した無料の公衆電話からかけています」

「良かったー! みなさんも無事ですか?」

「はい! 社長も副社長も松友も無事です。あっ、スミマセン! うしろに並んでいる人がいっぱいいるので切りますが、実は、明後日東京に行くので、経堂に伺います!」

 震災発生から約100時間が経っていた。張り詰めていた緊張の糸が一瞬でほどけ、目の奥が熱くなっている。明後日には会えるとわかり嬉しかった。私はその夜、経堂じゅうの店を回って鈴木さんの無事を伝えた。店の人たちも常連さんも大喜びだった。

帰って来た木の屋社員!

サバ缶ラーメン、

昇太さんと涙の再会

 3月17日の夜9時頃、鈴木さんと松友さんが経堂に到着。まずはと、「さばのゆ」に顔を出してくれた。

「ご心配おかけしましたー!」と入って来た2人の声は、ハリがあり元気そうで笑顔だったが、よく見ると目元は明らかに睡眠不足が現れ、顔色は悪く疲れていた。「あー、良かった! 良かった!」私は、カウンターから飛び出て2人と握手した。その場にいた常連さんも口々に喜びの声をあげながら、堅い握手やハグを。

 2人が、自衛隊に救出されてからたった2日後に東京にやって来たのには理由があった。一緒に被災した韓国の水産加工会社の社長、文さんを母国に送るためだった。

「仙台空港も東北道も使えなかったので、木村副社長の次男の奥さんの実家が秋田なのですが、そこの車で避難所に迎えに来て頂きました。湯沢市の実家からはタクシーで秋田空港へ。満席に近い状況でしたが何とか席を確保して羽田へ。そこから中国に戻って頂きました」

 松友さんと避難した中国人研修生たちは、波が引いてから山を下りて社宅で過ごし、その後、中国手配のバスで新潟に移動してフェリーで帰国したという。

 話を聞いていると、木の屋が律儀な会社だとあらためて感じると共に、外国人の被災者も少なくないことに思いが至った。東北に暮らす家族や友人を持つ外国の人たちは、今回の震災のニュースにどんなに驚き、どれほど不安な時間を過ごしただろうか。ちなみに文さんは、韓国で「最大の被災地・石巻に1人取り残されている!」と大きなニュースになっていて、帰国後、大変な数の取材を受けたという。

 社員のみなさんの安否の状況を聞くうちに、1人亡くなられたという悲しい事実を知った。大津波警報が鳴り響き、「山に向かって逃げよう」という時に、どうしても自宅に一度戻りたいということで、それが最期の別れになってしまったという。

 被災後の様子を聞いていると、鈴木さんが持ち前のユーモアを発揮しはじめた。

「避難所は、本当にないない尽くしで、近くのコンビニから食料を調達したりしたんですが、全然足りなくて、私に配られた食料が、ビスケット3枚だったんですよ。なのに、救助されてすぐ体重計に乗ったら、全然やせてないんです」

 店内に笑いが響き渡る。私もつられて笑う。そしてこの、「やせなかった」エピソードは、その後、鈴木さんの鉄板ネタになっていく。

 話をしたあとに大切なことを思い出した。鈴木さんが電話で「まことやさんのサバ缶ラーメンが食べたい!」と言っていたことだった。2人ともお腹がペコペコに違いない。「まことやさんに行きませんか?」と尋ねると、「絶対に行きます!」と、元気な声が。絶対という言葉が面白く、またみんなが大きな声で笑った。それにしても、被災地から東京に来たばかりで、相当に疲れているはずの時にもユーモアを忘れず場を和ませる鈴木さんはすごいと思った。

「まことや」に2人を連れて行くと、店主の北井さんが満面の笑みを見せた。

「いらっしゃいませー! 石巻のサバ缶ラーメンありますよ!」

 こちらもユーモア全開。2人とも特別に大盛りを注文。でき上がったラーメンを黙々と食べる。瞳を閉じながらスープをすすり、うっとりしながら麺を食べている。瞳を輝かせながら炙ったサバの身を舌に乗せていく。

「ごちそうさまでしたー! やっぱりうちのサバ缶は旨い!」と鈴木さん。「ですよねー! うちの製品をこんなに美味しくしていただいてありがたいです」と松友さん。するとそこに春風亭昇太さんが現れた。

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この連載について

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蘇るサバ缶〜震災と希望と人情商店街〜

須田泰成

東日本大震災による大津波は、宮城県石巻市にあった木の屋石巻水産の工場を壊滅させました。掘り出された缶詰は、東京・世田谷の経堂に運ばれ、商店街の人々の協力で磨き上げられ、1缶300円で販売されました。「希望の缶詰」と呼ばれたその缶詰は、...もっと読む

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tamatebako_kou 感動の話です。■ 9ヶ月前 replyretweetfavorite

japonaide 蘇るサバ缶〜震災と希望と人情商店街〜 https://t.co/wIFJly6vkP 9ヶ月前 replyretweetfavorite