阪神淡路大震災の時、兵庫県芦屋市にあった私の実家は、半壊して住めなくなった。家族は屋外に逃れることができ、着の身着のまま西宮北口駅まで数時間かけて歩き、電車に乗り、大阪に避難できた。が、周辺の被害はひどく、かなりの数の人がケガをしたり亡くなったりした。
当時、知った言葉が「72時間の壁」。これは、災害における人命救助の用語で、災害で倒壊したビルや家屋などに閉じ込められた人を救助する際、発生から72時間が経過すると、脱水症状や低体温症などにより、生存率が急激に低下するということ。東日本大震災でも、発生から2日ほど経つと、メディアでは「72時間の壁」が語られはじめた。72時間は丸3日。つまりは、3月14日の午後3時あたりに安否を分ける壁があるということだった。
被災地の惨状に呆然とするうちに、気がつけば「72時間の壁」を越え、4日目の3月15日になっていた。が、しかし、依然として木の屋社員の無事を伝える報告は届いていなかった。この頃になると、じりじり焦る気持ちが強まってきた。グーグルのパーソンファインダーの画面を見ていると、松友さんの妹さんが「兄の情報を求む」と書き込んでいたので、私も「情報が入ったら共有しましょう」とコメントした。SNSの画面を開けると、「さばのゆ」の常連さんや経堂の人たちから「木の屋さん大丈夫でしたか?」というメールがたくさん届いていた。それらに対して「了解です」とか「お知らせしますね」など返信しながら、どんどん気が重くなっていた。
その夜、お店は休みだった。家に帰っても震災報道を見てしまうだろうし、気分を変えたくて、駒沢にバーを共同経営していた松尾貴史さんと飲むことにした。
私は、2010年7月、松尾さんを鈴木さんに紹介。松尾さんは、当時、私がもう1軒経営していた下北沢のイベントカフェ「スローコメディファクトリー」(通称スロコメ)の隣に、カレーのお店「パンニャ」を出していて、木の屋製造の鯨カレー缶の監修をすることになった。その缶詰は、私がプロデュースを担当して、2011年2月に5000缶が製造され、スパイシー鯨術カレーという名前で売り出されることになっていた。
カレー缶詰のパッケージは、2月に開催した、経堂エリアゆかりのアーティストが参加するコンペによって、いたばしともこさんの作品に決まっていた。しかし、津波の被害を考えると、すべて流されてしまっただろう。幸い、3月初旬に400缶ほどを送ってもらっていたので、それだけはストックとなった。
飲んでいると突然、私の携帯電話が鳴った。発信元は知らない番号だった。電話に出ると聞き慣れた声。
「いやー、どうもどうも!」鈴木さんだった。
「鈴木さん! 鈴木さん!」
「ご連絡遅くなってスミマセンでした。今日やっと自衛隊にヘリコプターで助けられて石巻市総合運動公園に来ました。今、NTTが設置した無料の公衆電話からかけています」
「良かったー! みなさんも無事ですか?」
「はい! 社長も副社長も松友も無事です。あっ、スミマセン! うしろに並んでいる人がいっぱいいるので切りますが、実は、明後日東京に行くので、経堂に伺います!」
震災発生から約100時間が経っていた。張り詰めていた緊張の糸が一瞬でほどけ、目の奥が熱くなっている。明後日には会えるとわかり嬉しかった。私はその夜、経堂じゅうの店を回って鈴木さんの無事を伝えた。店の人たちも常連さんも大喜びだった。
帰って来た木の屋社員!
サバ缶ラーメン、
昇太さんと涙の再会
3月17日の夜9時頃、鈴木さんと松友さんが経堂に到着。まずはと、「さばのゆ」に顔を出してくれた。
「ご心配おかけしましたー!」と入って来た2人の声は、ハリがあり元気そうで笑顔だったが、よく見ると目元は明らかに睡眠不足が現れ、顔色は悪く疲れていた。「あー、良かった! 良かった!」私は、カウンターから飛び出て2人と握手した。その場にいた常連さんも口々に喜びの声をあげながら、堅い握手やハグを。
2人が、自衛隊に救出されてからたった2日後に東京にやって来たのには理由があった。一緒に被災した韓国の水産加工会社の社長、文さんを母国に送るためだった。
「仙台空港も東北道も使えなかったので、木村副社長の次男の奥さんの実家が秋田なのですが、そこの車で避難所に迎えに来て頂きました。湯沢市の実家からはタクシーで秋田空港へ。満席に近い状況でしたが何とか席を確保して羽田へ。そこから中国に戻って頂きました」
松友さんと避難した中国人研修生たちは、波が引いてから山を下りて社宅で過ごし、その後、中国手配のバスで新潟に移動してフェリーで帰国したという。
話を聞いていると、木の屋が律儀な会社だとあらためて感じると共に、外国人の被災者も少なくないことに思いが至った。東北に暮らす家族や友人を持つ外国の人たちは、今回の震災のニュースにどんなに驚き、どれほど不安な時間を過ごしただろうか。ちなみに文さんは、韓国で「最大の被災地・石巻に1人取り残されている!」と大きなニュースになっていて、帰国後、大変な数の取材を受けたという。
社員のみなさんの安否の状況を聞くうちに、1人亡くなられたという悲しい事実を知った。大津波警報が鳴り響き、「山に向かって逃げよう」という時に、どうしても自宅に一度戻りたいということで、それが最期の別れになってしまったという。
被災後の様子を聞いていると、鈴木さんが持ち前のユーモアを発揮しはじめた。
「避難所は、本当にないない尽くしで、近くのコンビニから食料を調達したりしたんですが、全然足りなくて、私に配られた食料が、ビスケット3枚だったんですよ。なのに、救助されてすぐ体重計に乗ったら、全然やせてないんです」
店内に笑いが響き渡る。私もつられて笑う。そしてこの、「やせなかった」エピソードは、その後、鈴木さんの鉄板ネタになっていく。
話をしたあとに大切なことを思い出した。鈴木さんが電話で「まことやさんのサバ缶ラーメンが食べたい!」と言っていたことだった。2人ともお腹がペコペコに違いない。「まことやさんに行きませんか?」と尋ねると、「絶対に行きます!」と、元気な声が。絶対という言葉が面白く、またみんなが大きな声で笑った。それにしても、被災地から東京に来たばかりで、相当に疲れているはずの時にもユーモアを忘れず場を和ませる鈴木さんはすごいと思った。
「まことや」に2人を連れて行くと、店主の北井さんが満面の笑みを見せた。
「いらっしゃいませー! 石巻のサバ缶ラーメンありますよ!」
こちらもユーモア全開。2人とも特別に大盛りを注文。でき上がったラーメンを黙々と食べる。瞳を閉じながらスープをすすり、うっとりしながら麺を食べている。瞳を輝かせながら炙ったサバの身を舌に乗せていく。
「ごちそうさまでしたー! やっぱりうちのサバ缶は旨い!」と鈴木さん。「ですよねー! うちの製品をこんなに美味しくしていただいてありがたいです」と松友さん。するとそこに春風亭昇太さんが現れた。
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