避難所の3日間の食事は合計ビスケット3枚

東日本大震災による大津波は、宮城県石巻市にあった木の屋石巻水産の工場を壊滅させました。掘り出された缶詰は、東京・世田谷の経堂に運ばれ、商店街の人々の協力で磨き上げられ、1缶300円で販売されました。「希望の缶詰」と呼ばれたその缶詰は、人と人をつなぎ、全国に広がり、洗われ、販売され、工場再建のきっかけとなります。 震災で希望を忘れなかった人と、手と心を差し出した人情商店街の人々がつながった感動の物語です。(バナーの写真:佐藤孝仁)

 翌3月12日。湊中学で眠れぬ夜を過ごした鈴木さんは、明るくなってすぐ、校舎屋上に上り石巻の街を見渡した。晴天の下、眼前に広がる光景に言葉を失った。自分が働き暮らした石巻の街は、日和山などの高台といくつかの頑丈な建物を除くと、すべてが海の底に消え去ったかに見えた。地表は、大小様々なガレキで覆われており、船や車もあちこちに投げ捨てられるように転がっている。あちこちで発生した火事のせいで、頭が痛くなる焦げた臭いがあたりに漂っていた。

「うちの工場は、どうだろう?」

 残っていた日和大橋の位置が確認できると、その左手奥にあるはずの木の屋の本社と工場の位置の見当がついてきた。だいたいそのあたりという場所をよく見ると、ほとんど原型はとどめていないが、倉庫の壁と屋根らしき物が残っているのがわかった。工場は、3階建てのはずだが、地面に押し潰されているように見えた。さらにものすごかったのが、もともと木の屋石巻水産のシンボル的な建造物で、事務所前にあった鯨大和煮缶の形をした魚油タンクが、県道240号線まで、約300mも流されていたことだった。魚油タンクは、高さ約10m、当日は200トンの魚油が入っていたにもかかわらずだ。

「あんなに重い物体が、あそこまで流されるとは!」

 鈴木さんは、底知れない無力感にため息をつくのがやっとだった。他の社員が無事かも不明だった。そして、避難している人たちが次々と目を覚ましはじめた。

 大津波警報が解除されていないため、400人ほどの避難者は、中学校の4階部分に詰め込まれていた。面積に比べて人数が多過ぎ、ギューギュー詰めの状態。お年寄りや乳幼児など身体の弱い者も多かった。お腹を空かせた赤ん坊があちこちで鳴きはじめた。

 そして、湊中学は、石巻市の「避難所」ではなく「待避所」の扱いとなっていて、備蓄食料にも限りがあり、残った物をお年寄りや乳幼児優先で配ると到底、足りるものではなかった。避難してから十数時間、大人も飲まず食わず、あまりにも喉が乾き、窓の結露を指でぬぐって口に入れる人もいた。

 夕方、海上自衛隊のヘリコプターが来て、急病人とケガ人の救助を行ったので、メモにて「食料・水・毛布が欲しい」と伝えた。日が暮れると空腹も寒さも限界に近くなったが、夜、護衛艦「たかなみ」のサーチライトが海から陸に向けて照らされた。「ちゃんと救助は近くまで来ているぞ!」というメッセージに思えて、心強く、もう一晩を乗り越えることができた。

 3月13日には、近隣住宅の屋根や2階にいた人たちが加わり、避難者の人数は500人に増えていた。

 大津波警報が解除されていて、先生たちと相談の上、「コンビニに行ってみるか?」となり、食糧調達に出かけた。元気に動ける男たちの有志十数名が、津波で破壊し尽くされた1階を抜けて、校庭のガレキをかき分けながら校門を出た。コンビニは海の方角に300mほど行ったところにあった。ミッションは、水と食料調達だった。

 途中の道路はガレキのジャングルで、あちこちで建物の残骸に乗用車やトラックが突っ込んでいた。バラバラになった住宅の柱や壁からは釘が飛び出ていたり、割れたガラスや金属片が散乱していて実に危険。ようやくたどり着いたコンビニは、道路に面した窓ガラスの半分くらいが砕け散っていた。中に入ると、かなりの量の商品が流出していたが、泥まみれながら、ミネラルウォーターやソフトドリンクのペットボトルが残っていた。たまたま店員さんが見に来ていたので、許可を得てお礼を述べ、避難所に持ち帰った。

 また、避難所から100mのところには、木の屋の缶詰を納めている取引先の倉庫があった。そこでは、木の屋の缶詰、お茶、乾物などを確保できた。

 食料や飲料を持ち帰ると、待っていた人たちの顔が少し明るくなった。乳幼児やお年寄りに優先的に配るとすぐになくなったが、「弱い人のために分けることを自然にできる石巻の人たちはすごい」と鈴木さんは思った。

 しかし、コンビニ1軒と倉庫から得た飲料と食料は、必要な量に対してあまりにも少な過ぎた。持ち帰った物を1人当たりにすれば微々たる量であり、また、乳幼児、子ども、お年寄り、妊婦などを優先すると、元気な大人に回ってくる量は知れている。結局、震災の翌日から3日間で鈴木さんが口にした食料は、合計でビスケット3枚だけだった。

「もうあの缶詰が食べられないのか」

経堂は哀しみに包まれた

 3月12日の経堂は、晴天。気温は前日よりも上がり、また一歩、春に近づいていた。しかし、天候とはうらはらに、心は寒い朝だった。

 鈴木さんと松友さんの携帯は、つながらなかった。朝から、新聞各紙は未曾有の震災の被害をセンセーショナルな見出しと写真で伝え、テレビ各局は各地の甚大な被害の映像を流し続けた。犠牲者の数は時間を追うごとに増えていく。

 そんな絶望的な状況の中、微かな希望も見えはじめていた。宮城県南三陸町、亘理町、岩沼市などでは、孤立した住民が救助を求める様子がテレビで中継された。南三陸町では、学校の校庭にあった大きな白い「SOS」の文字に自衛隊のヘリが気づき、特養老人ホームからお年寄りが救出された。そんな映像を見ていると、木の屋の人たちもどこかで、避難して助けを待っているのでは、という気がしてきた。

 テレビを点けながら、被災者の安否確認のサービス、グーグルの「パーソンファインダー」を使って、鈴木さんと松友さんに関する情報を探しまくった。ツイッター上に石巻の情報があふれかえっていた。魚町の近くだと、湊小学校か湊中学校、そして、ヨークベニマルに避難した人がいるらしいと推測できた。

 午前11時過ぎ、TBSの中継に映った避難所の中には、ハッとさせられた。木の屋のみなさんも、同じような状況に置かれているのではと思ったからだ。アナウンサーが「必要な物資は何ですか?」と、被災者に質問するのを見た時、みんなの居場所が確認できたら、すぐ支援物資を送らなければいけないと思った。ショックを受けている場合ではない。

 気がつけば昼になっていた。空腹を感じ、頭に浮かんだのは、近所の経堂西通り商店会にあるラーメン店「まことや」のサバ缶ラーメンだった。木の屋石巻水産の「金華さば水煮」缶のサバをチャーシュー代わりに使ったラーメンで、震災の前から経堂の人々に親しまれていた定番の木の屋メニュー。子牛のフォンドボーを煮込んだ同店のベースのスープに、サバ節の出汁を合わせた特製スープでコシのある細麺。そこに表面を炙った香り高いサバがトッピングされ、白髪ネギと針ショウガが添えられる。これが、たまらなく美味なのだ。

「まことや」に入り、サバ缶ラーメンを注文すると、店主の北井さんが、いつもの無駄のない見事な動きでラーメンを作り、目の前に丼をポンと置いた。サバ缶ラーメンは、いつもと変わらず絶品。食べ進めるにつれ、炙り金華サバの旨味がスープに溶け出し、麺とスープの味わいが深く濃くなる。スープを吸った金華サバは、舌先に乗ると身がホロホロほどけ、高級バターのような天然の脂の滋味が口じゅうに広がる。

「やっぱり旨い!」「ありがとうございます。ところで、木の屋さん、どうですか?」と、北井さんが心配そうに尋ねてきた。

「調べてるんですけど、なかなか決定的な情報がなくて……」「昨日来たお客さんが、もうサバ缶ラーメンは食べられなくなりますか? って聞くんです。オレ、うまく答えられなくて。うちの在庫が1ケースと少しだから、あと30杯くらいで終わっちゃいますね」

 経堂ピープルに親しまれたサバ缶ラーメンが、あと30杯で終わるかもしれない。そう考えると悲しさがこみ上げてきた。何もできない自分が情けなかった。できることといえば、残ったスープを残さず飲み干すことだけ。スープは、いつもよりしょっぱかった。

 午後も木の屋の人たちの消息を調べたが、手がかりはなく、テレビは、無事に救出された人と関係者の喜びを伝えると同時に、増え続ける犠牲者の数も積み上げていった。

 夜は、「さばのゆ」の閉店後、カレーの「ガラムマサラ」に行った。スパイシーなサバ缶料理は、いつもの美味しさだったが、オーナーシェフのハサンさんと話になったのは、木の屋のみなさんの安否と、このサバ缶が近く食べられなくなるかもしれないということだった。

 その後、「ガラムマサラ」の隣、焼きとん名店「きはち」に流れた。サバ缶のツマミは最高の酒の友。日本酒は、木の屋とのイベント期間中ということで置いていた石巻の日本酒「墨廼江」を冷やで飲むことにした。

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この連載について

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蘇るサバ缶〜震災と希望と人情商店街〜

須田泰成

東日本大震災による大津波は、宮城県石巻市にあった木の屋石巻水産の工場を壊滅させました。掘り出された缶詰は、東京・世田谷の経堂に運ばれ、商店街の人々の協力で磨き上げられ、1缶300円で販売されました。「希望の缶詰」と呼ばれたその缶詰は、...もっと読む

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