※これまでのお話は<こちら>から。
戦時中の「隠された地震」
太平洋戦争開戦から3年を翌日に控えた1944年12月7日午後1時半ごろ。紀伊半島沖を震源とした東南海地震が発生しました。典型的な南海トラフ地震でしたが、過去の宝永地震や安政地震に比べると規模は大きくはなく、M7・9でした。
強い揺れによる被害は愛知、静岡、三重の3県に集中。津波による被害は尾鷲など三重県沿岸で顕著でした。被害状況は十分には把握できていませんが、公表資料による地震の死者は総計1223人。県別では愛知438人、三重406人、静岡295人、和歌山51人、岐阜16人、大阪14人、奈良3人となっています。
比較的被害が少なかったのは、連日防空訓練に追われていた人々の災害対応力が高かったことが幸いしたのかもしれません。
敗戦の色を濃くし始めたときで、軍需工場が集中した名古屋で大きな被害を出したこともあり、軍部は徹底的な情報統制をしました。このため、「隠された地震」とも言われます。翌日の朝刊(中部日本新聞)は、軍服姿の昭和天皇の写真が1面トップで、3面の片隅に「天災に怯まず復旧 震源地点は遠州灘」という見出しで小さな記事が報じられているだけです。
一方、欧米紙では日本のこの地震が大きなニュースになりました。ニューヨーク・タイムズは1面に「JAPANESE CENTERS DAMAGED BY QUAKE(中部日本で地震被害)」の見出しを掲げ、「1923年の大地震(関東大震災)よりも大きい」とか「日本列島では激しい揺れと津波が起きたはず」などと報じました。世界各地の地震計に基づいたデータが分析され、連合国には巨大地震の発生を隠すことができなかったようです。
静岡県の袋井では、太田川下流の軟弱地盤で強い揺れとなり、多くの家屋が倒壊しました。諏訪湖周辺の軟弱地盤も強い揺れに襲われましたが、情報統制もあり単独の「諏訪地震」と呼ばれていました。愛知県も濃尾平野、岡崎平野、豊橋平野などを中心に大きな被害となりました。
中でも、名古屋市の沖積低地に集中していた軍需工場の被害は、著しいものでした。特に飛行機生産のほとんどを担っていた三菱重工・道徳工場や、半田市の中島飛行機製作所・山方工場の被害は甚大で、戦争継続能力をそぐことになります。これらの工場は軟弱地盤に立地した上に、紡績工場を飛行機工場に転用するときに柱などを抜いたため、耐震的にも問題があるものでした。
私が直接聞いた証言によれば、中島飛行機の工場では地震の当日朝に「戦況が悪化している。昼休みに工場を抜け出さず、ちゃんと頑張れ」と発破が掛けられ、当日午後はそれまで以上に人が働いていたそうです(学徒動員されていた京都三中の人たちが記した、学徒勤労動員の記録編集会編『紅の血は燃ゆる』読売新聞社より)。出入り口の扉の前には、目隠しのためについたてがありました。それがじゃまになり、地震で逃げようとした人たちが玄関でさらにパニックになって、外に出られなかったそうです。全国から学徒動員された多くの若者たちが犠牲になったことは残念でなりません。
中島飛行機工場での死者は約150人。翌週の12月13日には、飛行機エンジンの3〜4割を生産していた三菱重工名古屋発動機製作所大幸工場が空襲を受けました。名古屋はまさに震災と戦災を同時に受けることになったのです。
忘れてはいけない戦後の災害と教訓
さらに東南海地震発生から37日後の1945年1月13日には、愛知県東部の三河地方を震源とする三河地震が発生しました。深溝断層などが活動したM6・8の地震で、東南海地震の誘発地震とも言えます。しかし、死者は東南海地震の倍程度の2306人とされています。火葬場が足りず、野焼きで火葬も行われました。米軍機が来ない間に火を焚き、襲来する前にはいったん火を消すなど大変だったようです。
犠牲者が多かった原因は、直下の活断層のずれに伴う強烈な揺れと、未明の地震だったという条件。それに加えて、東南海地震で被害を受け、弱くなった建物が多かったにもかかわらず、金物供出などによる物資不足や出征による大工不足で補修ができなかったことなどが考えられます。
疎開先の寺院が倒壊して多数の児童が亡くなるなど、戦時下ならではの悲劇もありました。情報統制は相変わらず厳しく、被災者は地震があったことすら口外するなと軍から言われていたそうです。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。