『セッション』('14)、『ラ・ラ・ランド』('16)と話題作を連発してきた若き才能、デイミアン・チャゼル監督が次に選んだ題材は、人類史上初めて月に降り立った宇宙飛行士、ニール・アームストロングであった。アメリカ史の重要な1ページとして誰もが知る、1969年のアポロ11号打ち上げと月面着陸。この一大プロジェクトを成功させるまでに、主人公が経験したさまざまなドラマを描いた『ファースト・マン』は、アメリカ映画らしい王道のテーマに正面から取り組んだ意欲作だ。非常に有名なこのエピソードが、予想外の視点から新鮮に描かれる本作は、デイミアン・チャゼル監督がこれまで扱ってきたテーマを引き継ぎつつ、これぞ現代のアメリカ映画だと観客を納得させるだろう。主人公のアームストロング役に抜擢されたのは、『ラ・ラ・ランド』でジャズミュージシャンのセブを演じたライアン・ゴズリング。
「これまで僕は、偉大になりたい、有名になりたいといった野望に燃える人物を撮影してきた」*1 と、チャゼル監督は語っている。「偉大さ」は、彼が長らく追い求めきた主要テーマであった。音楽の世界で頂点を目指す青年を描いた『セッション』。俳優として成功したい、一流ミュージシャンになりたいと願う若き男女の愛をテーマにした『ラ・ラ・ランド』。いずれも、登場人物は偉大になるという非常に強い意志、偉大さや名声へのこだわりを持っていた。なぜ偉大にならなくてはいけないか、そのようなまわりくどい説明は、これまでのチャゼル作品には不要であった。偉大さを目指すことは疑いようのない前提であり、名声は無条件にすばらしいと主人公たちは信じている。ことほどさように、チャゼル作品には、アメリカ映画の主人公である以上、どのような犠牲を支払ってでも、偉大さを求めることは当然の義務だ、とでもいうべき、偉大さへの強迫観念があった。
考えてみれば、偉大さへの憧れはアメリカ文化の特徴でもある。トランプ大統領は「アメリカをふたたび偉大に」(Make America Great Again)と訴えて選挙戦を勝ち抜いた。偉大さの概念がアメリカ国民を揺り動かしたことは事実であろう。しかし、偉大とは具体的にどのような状態を指すのか、このスローガンからは不明瞭である。
さらに言えば、「ふたたび」(Again)というからには、過去に偉大だった特定の時代のアメリカを復活させたいのだろうが、いったいどの時代を指すのかもよくわからない。トランプ大統領のスローガンにあって、偉大さとはあいまいな概念、威勢のよいかけ声でしかない。しかし、おそらくそれで十分なのだ。アメリカにおける偉大さは国是のようなものであって、アメリカ国民には、グレイトの意味など後付けでかまわない、とにかくわれわれは何かしらグレイトな達成をする必要があるのだ、とみずからに言い聞かせているような節がある。人類初の月面着陸、という挑戦にアメリカが沸き立ったのも、こうした偉大さへのこだわりゆえであろう。
『ファースト・マン』は、かかる偉大さへの憧れが大きな犠牲をともなって描かれるアイロニーゆえに、見る者を考えさせる。劇中、アームストロングは数多くの苦悩を経験する。訓練や実験の途中で起こる事故によって、次々に死んでいく仲間たち。愛する娘の病死。飢えた国民を助けずに月へロケットを飛ばすなど本末転倒だという、社会からの厳しい批判。予算獲得のため、政治家に愛想笑いをする虚しい仕事。緊張を強いられる日々がもたらす、家族との不和。かくして本作は、死と別離、孤独とすれ違いが全編を支配する、暗い物語となっている(原作を読むとわかるが、アームストロングは海軍時代から数多くの事故で仲間の死を経験している)。
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