夫婦円満の秘訣は、求めない、拒まない、腹を減らさないの「3ない」

【第10回】
相変わらず、明人の妻、議員として忙しい毎日を送っている。
豪と明人は人目を避けながら愛欲に溺れていた。
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 なんであんなことをしたのか、今もわからないんです。

 あの人はとても優しかった。一緒に歩道を歩いていても、「危ないよ」ってあたしに車道側を歩かせたことはないし、ごはんを食べに行っても、あたしの分までお皿に盛ってくれた。

 あれの後も、先に寝たことは一度もなかった。あんなに優しい人を、他に知りません。

 でも一度、「あたしのどこが奥さんよりいいの?」ってめんどくさいことを訊いたら、あの人は小さく笑って、答えてくれなかった。男の人って、ずるいですよね。

 むりやり別れさせられた後、別の男とも付き合ったけどうまくいかなかった。抱かれながら、あの人と比べていた。うっかり名前を呼ばないようにしていた。あの人のことをあきらめきれなかった。

 ひとつだけはっきり言えます。

 あたしが悪いんじゃない。あの人の奥さんが悪いんです。

 かわいそう。あたしだけが理解してあげられると思っていた。

 どうしてかわいそうだと思ったか? あの人はあたしに愚痴ったり、弱みを見せたりしたことはありません。でもあたしにはわかったんです。

 あの人を尾行して、相手が男とわかったときはショックでした。なんでもありなの? って。そう思ったら、きれいさっぱり、あの人への思いが消えました。

 後悔していません。許せなかった。それだけです。

 何度でも言います。悪いのは、すべてあの人の奥さんです。だからあの人は浮気を繰り返した。そうだと思いませんか?

 それにあたしがあの人の奥さんだったら、あんな結末にはならなかった。


 ──ゴーちゃんの家に行ってみたいなあ

 豪が社内ミーティングを終えてスマホを覗くと、明人からLINEが来ていた。五十過ぎの男からとは思えない、目がハートマークのうさぎのスタンプが添えられていた。

 ──まなみがいつも家にいるから無理だよ。それよりアキちゃんチのほうがいいんじゃない?

 今度は拗ねているうさぎのスタンプだ。

 ──ゴーちゃんの家に行きたいんだよ

 豪は返す。

 ──たいしたもんないよ。

 ──なくていいの!

「乙女か!」と豪は思う。しかし嫌な気はしない。椅子の背にもたれながら、豪は適当に返す。

 ──よっしゃ、決まりだね。俺だけ行くのも怪しまれるから、美砂もライも一緒だな。でも美砂はいま忙しいから、それが済んでからだな。来週以降になりそう。

 ──OK。

 豪はスマホを置いた。そばで瀬島が待っていた。長身のすらりとした影がそばで立っていることに気が付かなかった。

「社長、以前よりスマホを見られますね」

 そうか、と豪は気のない返事を見せる。気を付けなければいけないなと、豪はやりとりしたLINEをすべて消去した。

 ──ゴーちゃんの家に行ってみたいなあ

 明人の場合、それが悪意のない要望だとわかる。

 しかし短いながらも一語一句同じ文章だったため、豪の脳裏に、かつての女を思い出させた。

 本会議は荒れに荒れた。いつもよりマスコミや傍聴人が多かった。かつてのヤジ事件を期待していたのだろう。美砂が壇上に立っただけで、一部から拍手が巻き起こった。

 美砂はまず、先月認可外保育施設で起きた生後六ヵ月の赤ん坊の死亡事故について取り上げた。

「都は保育従事職員が配置されていないことを把握しておきながら、改善勧告を出したのは死亡事故の後でした。ご遺族のお母さんが園のホームページに、保育士三人と書いてあったため、疑うこともなくお子さんを預けました。しかし、事故後に、実は保育士の資格を持った人がひとりもいないことを知りました」

 美砂は手にしていたハンカチに力を込める。

「ご遺族のお母さんと直接お会いしました。お母さんはシングルマザーで、働きながらお子さんを育てていました。にもかかわらず、このような事態に陥り──」

 美砂は涙を拭う。意図して濃いめにしたメイクが滲む。強烈なヤジが飛ぶ。

「わざとらしいんだよ!」

「大根役者!」

 火に油を注がれたように、美砂は大声を張り上げる。

「このお母さんはもともと大企業で働くキャリアウーマンでした。結婚後も仕事を続けていました。育児休職中に同じ会社で働いていた夫と離婚してから会社が態度を変え、体調を崩して育児休職延長を申し出るも断られ、退職へと追いやられました。それでも女手ひとつで育ててきました」

 矢のようなヤジが美砂を襲う。

「自己責任だ!」

 美砂は議員を睨み付ける。

「私は、同じ小さな子を持つ母親として、このような事態を見過ごせません。幼い子を殺したのは誰か? それは、子どもが生まれても女にまかせきりの、世の男たちです!」

 ヤジのボリュームは大きくなる。

「育児は女の特権だ!」

 美砂は連中を指さす。金切り声で返す。

「いまヤジを飛ばしている人たちの中に、子どものおむつを取り替えたことがある人はいるでしょうか? 手伝い程度の御守りをしただけで、育児に参加した気になっている男たち! 育児休暇を取ったにもかかわらず、愛人のもとに日参していた議員!」

 都議会の屋根が吹き飛ぶのではないかと思うほどの怒号が上がる。

「ここは都議会だ! 国会に行って言え!」

「首相に直接言ってみろ!」

 出版社の男性編集者は記者席から舌なめずりを隠さない。これだけのマスコミが来ていたら、誰がどんなヤジを言ったか、普段より厳しくチェックされる。それでも美砂の発言に対して、本気で言い返している。美砂の天性のヒールぶりに、こいつは男を苛立たせる天才だと感じた。

「保育士を〝誰でもできる仕事〟と宣う実業家がいます。やったことがないからそんなことが言えるのです。いま私に対してヤジを飛ばし、反撃をした気になっている男の議員には、臨時保育士としてみっちり働くことを提案します。そこでようやく、子どもを育てることがどれほどの重労働か、身をもってわかることでしょう」

 絶叫にも似た罵声と快哉を叫ぶ拍手が飛び交う。美砂の支持派と非支持派がまっぷたつになって、立ち上がり、お互いに罵り合っている。議長がいくら「静粛に!」と呼びかけても声はやまない。

 美砂は持ち時間より早く打ち切られてしまった。美砂は抗議として壇上から動こうとしなかった。結果、屈強な警備員が美砂を持ち上げて、彼女を議会から退去させた。その瞬間、自民党議員からバンザイ三唱が上がった。テレビ屋たちには美味しすぎる絵が撮れる。前代未聞の議会場になった。そして誰の目にも明らかだった。この日の主役が誰なのか。

 多数のテレビカメラが美砂を追いかける。廊下で下ろされた彼女はスカートの裾の部分が裂けても物ともせず、カメラに向かって啖呵を切った。

「私は負けません。この世界から母親がひとりもいなくなっても、東雲美砂が、子どもたちの母親になります」

 フラッシュが焚かれる。ICレコーダーとスマホが向けられる。立憲民主党の控室に戻った途端、美砂は夫の明人にも見せたことがない、満ち足りた笑みを浮かべた。剝げ落ちたメイクは仮面からはみ出した素顔ではなかったか。

 しかし後日、この日のパフォーマンスを買われて、思わぬ人物からお呼びがかかることを彼女はまだ知らなかった。

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東京パパ友ラブストーリー

樋口毅宏

有馬豪は、渋谷にあるファンドマネージメント会社のCEO。30歳のイケメンであり、イクメンだ。 娘の亜梨が通う保育園で、鐘山明人というおっさん建築家と知り合い、飲みに誘われる。 これが、それぞれの妻を巻き込んでの地獄の幕開...もっと読む

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