私のことナメているんでしょう?

【第20回】大手情報誌の原稿がボツになり、いまだ「ドルフィン・ソング」の二人に会えないトリコ。だが今日はクリスマス・イブ。あれほど泣きを見た男なのに、それでも俊太郎の優しさにほだされ、「好き直し」のスイッチが入ってしまった。12月25の朝、トリコは目覚めると俊太郎のベッドにいた。

7 恋してるだとか好きだとか

 この夜ばかりは街の灯がいつもと違って見える。人工の樅の木に無数の電飾と赤玉が飾られて、行き交う人たちの頭上を照らしている。温かみを感じるイルミネーションだが、LEDではないから電力代が掛かるだろうなと、無粋なことを考えてしまう。

 ケンタッキーフライドチキンの店頭のカーネル・サンダースはサンタの格好をして、凍り付いたスマイルを決めている。この店の看板は今後KFCに変わる。本国アメリカで「フライド」という言葉は、脂っぽいイメージが強すぎるため、略称を世界中に広めるようになった。

 私は空を見上げる。雨は夜更けすぎに雪へと変わる予報もなく、身を切るほどの寒さではない。

 クリスマスの光景は、私がいた時代とさほど変わらない。しかし年々前倒しになっていき、ハロウィンが終わるのと入れ違いに、デコレートされたツリーとライティングにクリスマスソングが流れるようになるとは、この時代の人にも想像できないだろう。

 ミルキーウェイの店内には若いカップルが目立つ。その顔はどれもウキウキしていた。テレビでは前年の深津絵里に続き、牧瀬里穂出演のJR東海のCMが大ヒットしていた。一般人も同じように、ロマンチックなドラマの主役を演じたいのだ。

 私も今夜だけは、誰かに優しくできそうな気がする。しかしそれも、聖夜をともに過ごせる相手がいるかどうかだ。

 スーパーのレジ打ちとテープ起こしの仕事を掛け持ちしながら、年を越そうとしていた。

 ミリ・ヴァニリの記事は結局載らなかった。大手情報誌から原稿の依頼も途絶えた。だけど後悔はなかった。ロッキング・オンに持ち込むことも考えたが、ミリ・ヴァニリはロックでなかったので、採用されなかっただろう。

 身分を証明するものは手に入ったが、スタートラインに着いてさえいない。島本田恋と三沢夢二のふたりといまだに会えていない。不思議と焦りはなかったが、ドルフィン・ソングのことを忘れたことはなかった。ないない尽くしで一九八九年を終えようとしていたが、頭の隅にはいつだって、劉朝偉が話した内容がこびりついていた。

 三沢夢二の祖父、三沢庄藏が世界の大立者であることは聞きかじっていたが、首相経験者ではないし、夢二が幼い頃に亡くなっているため、大きく捉えてはいなかった。

 しかし劉が言うには、中国にとって三沢庄藏は東條英機と並ぶ大物だったという。

 夢二が自分の口から祖父について語ったことはない。インタビューの本数も少ないし、ドルフィン・ソング殺人事件の後に週刊文春と新潮が少し騒ぎ立てただけだ。私はやはりふたりの事件には、大きな謎が隠されている確信を深めていた。

 かつて石原慎太郎が、松本清張の著作をこき下ろしたことがあった。

「清張さんは多くの政治小説を書いているけど、あれは政治家をやっている私からしたら大したことはない。あの人の書いた政治の裏の裏は表だけど、本物の政治は違う。裏の裏はまた裏なんだ」

 ビーバーのように前歯を見せて笑う慎太郎を見るたび、「この男は気が小さいな、繊細だな」と思っていたが、傘寿を過ぎても都知事や党の代表にしがみつくそのなりかたちは、権力の権化そのものだと、畏怖を覚えずにはいられなかった。

「満州は当時石炭の埋蔵量が世界でも屈指だった。いまでも資源が豊富にある。中国政府はその事実を公にしないが、近年もウランが発掘されたという話を聞いたことがある」

 劉朝偉の目には、見えないものが映っていた。

 —底なし沼を思わせる政治の闇に、足を踏み入れる覚悟が、私にあるだろうか。

 そんなことを考えていると、息をするのも忘れそうだった。


「トリコ待ったー? めんごめんご」

 目の前に手を合わせて、だらしない笑顔の笠野俊太郎が飛び込んでくる。私は一時、憂欝を忘れる。彼は私が「前島トリコはペンネームで、本名は違うんだよ」と免許証を見せた後も、変わらずトリコと呼んでいた。

「こう見えて俺も忙しくって。ほら、きょうは五件ぐらい掛け持ちしてるから。体がいくつあっても足りないよ、まったく」

 誰の懐にも飛び込むように見えて、怒らない人に向けてちゃんと言葉を選んでいる。基本的に「わかってクン」のため、他人に嫌われたくないと強く思っている。優しくするとつけあがり、冷たくすると「かまってかまって」と鳴き声をあげる。男のくせに仔猫ちゃん。いちばん手がかかるタイプだ。

「きょうはどうしようか。世間一般のカップルみたいにチキンとケーキでも食べる? それとも〝一杯のかけそば〟で済ませようか」

 裕福な時代の貧乏賛歌だ。懐かしさよりも先に失笑が来る。日本はこの後、家族三人で一杯のかけそばさえ注文できない時代が来る。「失われた三十年」が口を開けて待っている。

 私がこの時代に来ていちばん感じ入ったのは、ネットや携帯電話がないことではなく、モノの値段が高いことだった。少なくとも飲食代は未来のほうが掛からない。この時代ではマクドナルドのハンバーガーが二百円だし、吉野家の牛丼は四百円もする。まだサイゼリヤもはなまるうどんも、二百七十円均一の居酒屋もない。街に「激安」の文字が見当たらない。この時代は好景気だから当然とはいえ。

 ときどき思う。いまから百円ショップでも作っておけば金持ちになれないか? と。

 しかし私の目的はひとつだけだ。

「違うこと考えていたでしょ。もーしっかりしてよ」

 俊太郎は私の目を覗き込んでくる。彼にとって私はまだ出会って数カ月だが、私からすれば二十年以上連れ添ってきたので、何を考えているのか、手に取るようにわかる。

 三十年前の私は、男も世間も知らなかった。しかし年齢の立場が逆転したいま、ふたりの関係を作り直せないかと、バカな考えをどこかに持っていた。

 若かりし頃の夫に出会い、不実を咎め、正しい道へと導くことができるのは、キャスリーン・ターナー演じるペギー・スーぐらいのものだ。愚かな男は死んでも直らない。

 私の友達はこう言い切ったことがある。

「俊太郎さんってさ、トリコに対して愛情はあるかもしれないけど、思いやりはないよね」

 彼女が俊太郎と関係を持っていたと知ったのは、だいぶ経ってからだ。

 浮気を責めると俊太郎はこう言い放った。

「男はな、違いを楽しめるんだ」

 俊太郎との三十年は、それこそ石原慎太郎を凌駕する妄言と世迷言の見本市だった。

「台所が汚い女はだいたいあそこも汚い」

「男にとって妻とは、セックスをさせてくれるお母さんのことだ」

「俺の合コンは、キーパーのいないPK」

「女は感情の高まりから、男は精液を吐き出すため、セックスをする」

「女性の社会進出を讃える男でも、それが自分の嫁だったら別だ」

「前歯がガチャガチャの女って、すぐにヤラせるよな」

「おまえって、よく働くダッチワイフだな」

 そうして私の人格は徹底的に破壊された。なのになぜ私は許してきたのだろう。

 俊太郎は調子に乗ってむかしの女自慢を吹聴した。十代の頃はふんふんと聞いてきたが、ほどなくして黙るのをやめた。

「私のことナメているんでしょう? 何を言っても怒らないと思っているの? 私はあんたのママじゃない! 何でもニコニコ聞いてると思ったら大間違いだよ!」

 そのたび俊太郎はすまなそうな顔をしたり、拗ねたり、逆に甘えてきたりして、つまりごまかすことでその場その場を凌いできた。

 しかし女も二十五を過ぎれば哲学者より人生を悟るようになる。ああ、投稿したYahoo!知恵袋も含めて、何人にこう言われただろう。

「でも何だかんだ言っても別れないのは、俊太郎のことが好きだからでしょう?」

 そうではない。断じてそうではない。

 私は俊太郎に一生を捧げた。連帯保証人にもなった。彼の借金のために、おぞましいバイトもした。しかし私が自死するひと月前、俊太郎は私を見棄てて外の女の元に去った。

 決して許すことはできない。

 —そんなクズ野郎、殺っちまいな!

 多くの女がそうであるように、自分に甘く、他人に厳しい。ひとにはビシッと言えるのだけど、自分は実行できない。

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ドルフィン・ソングを救え!

樋口毅宏

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