あれ、ボツにしますから

【第18回】1989年にやってきて、人生で初めて充実した日々を送っていたトリコに、暗雲がたれ込め始めた。アーティストに対する誹謗中傷にあたるので、雑誌に書いた記事がボツになるという。未来から来たトリコには、それが明らかだというのに……。挙げ句、トリコにはゴーストがいるのではという疑いまでかけられた。

5 ミリ・ヴァニリ

 予想外の展開が起きた。私が書いたミリ・ヴァニリの記事が切り捨て御免になっていた。

「トリコさん、あれ、ボツにしますから」と、寮の入り口の電話口で編集者は傲然と言い放った。受話器越しだったが、向かっ腹を立てていることが伝わってくる。「ムチャなぺージを作りたい」と宣っていた男と同一人物とは思えなかった。

「トリコさん、困るんですよね。こういう根も葉もない憶測記事を書かれると。レコード会社は怒り狂うだろうし、ヘタしたら国際問題にまで発展しますよ」

 私ははっきりと、断定口調で、こんなふうに書き記した。

〝アメリカでもバカ売れしているミリ・ヴァニリですが、この人たち、口パクですよ〟

 順を追って説明しよう。ミリ・ヴァニリは西ドイツでデビューした黒人四人組のダンスグループだ。当時流行した、ありがちなクラブサウンドだったものの、ボーカルのふたりが若くてカッコ良かったこともあり、シングルが全米で一位をゲットするまでにブレイクした。

 ところがだ、テレビに出るときはいつもメインのふたりだけが出演していたが、実際に歌っていたのは地味で目立ない、引き立て役のおっさんふたりのほうだった。

 ゴールドディスクを獲得し、すっかり天狗と化したフロントマンを、影のボーカルが頭にきて暴露すると、世間はひっくり返るほどの大騒ぎになった。日本でもその後似たようなことがありましたよね。〝現代のベートーヴェン〟と言われた自称全聾の作曲家に、実はゴーストライターがいた、みたいな。あれと似たようなものだ。

 担当の憤りは収まらなかった。

「何を根拠にそんなことが言えるんですか。彼らや関係者に直接取材したんですか」

「あの人たち、いま大人気でどこも取材できないですよ」

「トリコさんは英語が喋れるんですか」

「a little」

 嘘ではなかった。子供の頃から海外に連れ回されたのと、世界中の人権活動家が自宅に来ていたおかげで、多少のリスニングは大人になってからもできた。事情聴取は続いた。

「あれですか、トリコさんは黒人差別主義者ですか?」

 呆れてモノも言えないとはこのことだった。件の出版社は左寄りで、人権系の本も多かった。つくづく私はヘサヨと縁が深い。しかし私も負けてない。何ひとつ実績のない、ライターもどきのくせに食い下がった。

「そちらに編集権があるのはわかります。抗議を恐れる気持ちもあるでしょう。でもたかが音楽雑誌じゃないですか、こんなこと言っちゃなんだけど。何でもかんでも自主規制していったら、最後は何にも言えなくなりますよ。それわかってます?」

 こんなおばちゃんに言われて我慢できなかったのだろう。遂に担当は、この時代で言うところの「プッツン」してしまった。私は受話器から耳を離した。

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