浮気・借金・DVの天才

【第17回】1989年にタイムスリップしたトリコは、自分が書いた原稿が雑誌に採用され、初めて自分を生きているような感じに浸っていた。だがそんなとき、思い出したくない元情夫――笠野俊太郎と出会った。最愛の男だった季節もあったが、彼こそ「死んで欲しいヤツ一位」。彼はその後の浮気・借金・DVの素振りも見せず、トリコを口説き始めた……。

4 ロミオ

 見間違えようがなかった。いくら若いとはいえ、人生のほとんどを共にした元パートナーなのだから。

 心臓が止まらなかったこと自体、奇蹟だと思った。驚愕のあまり、一度は足が止まったが、踵を返すことなく、ゆっくり前に進めた。視線をアスファルトの路面に落とす。

 俊太郎は女の子と楽しそうに立ち話に興じていた。私は存在を空気のようにして横をすり抜けようとした。

 笠野俊太郎—最愛の男だった季節もある。だけど「死んで欲しいヤツ一位」だったときのほうが圧倒的に長い。しかも十年連続の殿堂入り。

 私は笠野俊太郎から、男がいかに好色で、でたらめで、優しくて、気難しく、女など比べ物にならないほどのロマンチスト、ゆえに酷薄で、なのに憎めない生き物かを教わった。

 十六歳の私はこの男を相手に花を散らしてからというもの、世界でいちばんの幸福と不幸をいずれも経験した。俊太郎は浮気・借金・DVの天才であり、愛嬌とハッタリのみを武器にした、土下座の達人だった。

 つまり彼は女の頬を張ったその手で優しく髪を撫でる才能に長けていた。

 苦しみ抜いた挙げ句、何度も別れようとしたが、そのたび泣いて縋ってきてやり直した。会わずにいた期間も長かった。しかし腐れ縁とは恐ろしいもので、本人たちの意思とはかけ離れたところで強引に引き寄せる。

 一九八九年の俊太郎だと仕事は何をしていたか。彼に言わせると、神父だった頃や、外交官の秘書を務めていたこともあるらしいが、私にはパチンコ好きの男妾にしか映らない。本人に訊ねたら、「職業? 笠野俊太郎だ」と答えるだろう。

 胸の高鳴りが止まない。だけどこれは恋じゃない。ライオンと出くわしてしまったバンビに似ている。

 私は俊太郎の脇をスルーした。ホッと胸を撫で下ろした刹那、腕を掴まれた。

 濡れた仔犬のような目と目が合う。腕に力が加わる。だけど少しも痛くない。

「……どこかで、会ったことない?」

 思い違いじゃない。この雑踏の中で、私たちを残して、世界は一瞬動きを止めた。

 言葉にした後も、俊太郎の口は半開きのままだった。私は二十五歳の俊太郎を見る。くりくりした瞳、丸い頬、男のくせにぷっくりした唇、白い首筋、軽薄と誠実が違和感なく同居した男が目の前に立っていた。私がいちばん好きだった笠野俊太郎だった。

「ごめんなさいね。会ったの、初めてじゃないよね?」

 それまで俊太郎と話していた娘はぷいと背中を向けて立ち去っていった。私があのコあのコと指を差したが、俊太郎はわざと聞こえるように、いいよ、あんなブスと吐き捨てた。

 俊太郎が顔をくしゃくしゃにさせて笑う。私は何度この笑顔で彼の罪を水に流してきたことか。言葉にならない思いが一気に押し寄せようとしていた。

 しかし俊太郎のファッションセンスは時代を超越して最悪だった。白のダブルのスーツに、ボタンは三つ。おまえは金融屋か! シャツは紫のジョルジオ・アルマーニ。ジョルジオに謝れ!と言いたかった。

 私の顔は驚きと戸惑いに支配されていたに違いない。だけど俊太郎はこちらの心を見透かしたように、ニコニコしながら、土足で私のなかに踏み込んできた。

「ちょっと時間あるかな。ほんとにちょっとでいいから。あのね、前にも会ったことがあるような気がしたの。なんでだろ? どうせ誰にでも言ってんだろとか思わないでほしいな。お願いだから。ごめんなさい。ダメですか?」

 人当たりの良さ、優しい声、饒舌な無駄口は健在だった。この時代に来ても、私のよく知っている笠野俊太郎がいた。

 腕を放した後も、私の目をまっすぐに覗き込んでくる。服を脱がされるようで恥ずかしかった。私は気が動転したまま、何を言えばいいのかわからずにいた。

「いくつですか? あ、女性に年齢を訊いちゃいけないよね。でもそんなことない。僕より少し上かもしれないけど、なんだろ、すごく可愛いんで声をかけちゃった。強引でごめんなさい。でもホント、あまりに素敵なんで、考えるより先に手が出ていたんです。申し訳ない、この通り!」

 俊太郎は直立不動の姿勢から九十度に頭を下げた。本当に嫌だったら、この隙に逃げ出せばよかったのだ。だけど私は髪の毛の量が多い、彼の後頭部に見入っていた。何人かの通行人が振り返る中、俊太郎が恐る恐るといった感じで頭を上げる。片目を閉じたまま、私の表情を窺っている。こんな可愛い顔は見たことがないと思った。嫌になるほど見飽きてきたはずなのに!

「私なんか、オバタリアンだよ」

 やっと出てきた私の言葉は、自分を卑下するものだった。だけど事実なので、言っておかなきゃと思ったのだ。

「そんなことないよ。全然ない。あの、もしよかったら、お茶をしませんか。僕がお金を出しますから。おねえさんは一緒にいてくれればいいんです。そうしたら僕は幸せになれるから」

「よくそんなにペラペラと、出まかせばかり言えるよね」

 私は感嘆交じりに口に出していた。それでも俊太郎は私がノッてきたと思ったのか、でれっと目尻を下げた。胸の前で手を合わせる。

「あの、どうでしょう。ダメですか。お茶だけでいいんです。五分でいいです」

 私を相手に少し緊張している彼を見るのは、いったいいつ以来か思い出せなかった。

 腕を組んで平身低頭の俊太郎を見下ろす。気分は悪くなかった。

「お茶だけだよ。約束する?」

 目の前で、笑顔が弾けた。

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