第2部 1989年秋
1 因果鉄道の旅は始まったばかり
季節は冬から春、春から夏、そして秋へと変わりつつあった。私は来る日も来る日もレジを打ち続け、休みの日は街に出たり、図書館で調べものをしたり、音楽の原稿を書いたりした。代わり映えのしない平穏な日々を過ごしていた。
四月はショックというか、残念すぎることがあった。川崎市高津区の竹薮に、一億円が棄てられていた事件が報じられた。そうだった。当時転がり込んでいた家から割合近くて、友達と「先に見つけていたらねえ」と笑っていたのだ。私は文字通り、地団駄を踏んだ。
世はトレンディードラマが真っ盛り。テレビの中で石田純一が身分不相応に広いマンションに住んでいたが、ちょっと稼ぎのいいサラリーマンなら似たようなことをしていた。あのお金さえ手に入っていたら、リバーシティ21のスカイライトタワーを買うことだって夢ではなかったのに。当たり馬券をむざむざ失くしたかのように、しばらくの間、溜め息が止まらなかった。
世間の出来事としては、六月に美空ひばりが亡くなった。一月には昭和天皇、二月に手塚治虫、四月に松下幸之助と、立て続けに神々が逝去した。当時は私も若くて、さして関心がなかったが、こんなに矢継ぎ早だったかと今さらながら驚く。否が応にも昭和の終わりを実感した。オヤジどもが飲みの席で言っていたことを思い出す。
「あの世では、よほど盛大な宴会を開いているに違いない」
同じ頃、天安門事件が起きた。民主化を要求する学生を中心とした、十万人を超えるデモ隊を、人民解放軍が武力で制圧した。間違いなく歴史の一ページに残る大事件だった。戦車の前に立ちはだかる男の映像を久し振りに見た。この時代に生きる人はもちろん初見だろうが、私には懐かしかった。
世界が大きく動こうとしていた。十一月にはベルリンの壁が崩壊し、翌年からゴルバチョフが大統領を務めることになるソビエト連邦は崩壊の道を辿っていく。
こういうとき思う。
「きみの最大の目的は、ドルフィン・ソングの殺人事件を阻止することかもしれないけど、本当は他にやるべきことがあるんじゃないのか?」
誰かにそう言われたら、ぐうの音も出ない。
「歴史書の前では人はみな神になれる」という名言があるが、それなら私だって神も同然だ。青春を共有したミュージシャンのふたりだけでなく、世界中のもっと大勢の人たちの命を救うことができるかもしれない。それこそが、この時代にタイムスリップしてきた理由だとでも?
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